放課後家に帰ったとき、テーブルの上に手紙とお金が置いてある。子どもはお金を手にして近くのコンビニに行き、欲しいものを手に入れる。そこでも声を出さなくても物が手に入る。
また、バスに乗っても下りるときボタンを押すだけでよい。電車の切符も自動販売機で買える。
このように子どもは、家庭、学校、そして地域社会の中で一言も声を発しなくても生活できる社会で過ごしている。
2)学校・町自慢ができない
大学の1年生の授業の最初に、「あなたが育った町や学校の自慢をして下さい」と尋ねる。
ところが自慢できる学生が少ない。まず自分が育った地域のことをあまりにも知らな過ぎる。
町の木、花、鳥、それから町長の名前など知らない。また、過ごした学校の想い出が乏しいのか学校の自慢も乏しい。
だからであろうか。千葉大学ではここ10年ぐらいの間、新入生歓迎会の「○○県人会」「□□高校同窓会」集まれ、という看板が消えてしまった。
先輩たちが後輩の面倒を見なくなっているのである。かつては郷土や高校の先輩が、どのサークルがよいか、どんな講義を取ればよいか、どのあたりに下宿すればよいか、を教えてくれたものである。それからよいアルバイトも紹介してくれた。
地域の子ども会や年中行事がすたれ、思い出がなくなっている。高校も半分は塾や予備校に通っているので、学校にはエネルギーを半分しか注いでいない。
大学生にとって地域社会や高校は単なる通過集団としてしかなっていない。これでは想い出づくりができるわけがない。
3)仕切り屋が育っていない
大学生の中から仕切り屋が消えてしまっている。仕切り屋の典型であるサークルのマネージャーのなり手がいない。またコンパの幹事のなり手がいない。
こうした仕切り屋がいなくなると、1980年代まで見られた「合コン」がすたれてくる。
「合コン」をするためには、まず仲間を5人ほど集めなければならない。そして次に異性を捜さなければならない。それからみんなが集まる場所を予約し、その場を盛り上げなければならない。
こうしたことを仕切る人がいなくなっている。しかし今の学生は「合コン」が嫌いではない。誰かが「場」を設定してくれれば参加する。
テレビの「ねるとん」を覚えているだろうか。タレントの「とんねるず」が場を設定し、若者がそこに参加し恋人を捜すゲームである。
これは80年代の中頃から始まり90年代まで続いていた。ここでは友達を集める必要はない。1人で参加できる。そして気にいった相手を見つけてつき合う。
この「ねるとん」の前に、同じようなテレビ番組に「フィーリングカップル5対5」というのがあった。
これは同じサークルとか同じクラスの学生が5人集まり、話し合ってカップルを決めるゲームである。
出演者はテレビに出る前に、とにかく自分を含めて5人という友達を集めなければならなかった。
この点が1人で参加できる「ねるとん」と決定的に違うのである。80年代の前半頃までは、学生の間に遊びの世話をやく人がいたのである。