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'92年6月から大連市は外資を計り旅順経済開発区」の建設に着手し始めた。そして大連市人民政府は機会ある毎に、中央政府に対して日露戦争の遺跡が多く残っている旅順口の対外開放を働きかけていたが、軍事的な要所である旅順の開放に難色を示していた政府が遂に96年7月10日、一部開放を承認した。そのため、旅順は一躍「満州」旅行のメインポイントとなった。

さらに、97年、大連市が郊外に日本統治時代の日本人街や、当時日本人によって作られた東本願寺(旧満鉄の文献を大量に保存しており、90年代に入って以後は京劇の練習場として使われてきた)や日照寺などの建築を移築して、22万平方メートルに及ぶ「中日友好交流中心」を建築する計画を立てているという*9。この企画は明らかに「ノスタルジア・ツアー」で訪れてくる日本人観光客のまなざしを意識して、積極的に「旧満州」の商品を提供する良い例である。

 

*9 中国語新聞『中文導報』(1996年10月2日付け)。

 

3. まなざしの流用

 

富山一郎が『戦場の記憶』の冒頭に、'94年2月にハルビンにある関東軍731部隊の本部跡を訪問した時のエピソードをこう書き記した。

「貧しい展示ながらも結構打ちひしがれた。外に出た私を待ち受けていたのは、受付の女性が差しだした大学ノートだった。(中略)結局喪に服すようなことを書いてしまった私に対して、この受付の女性は、今度は、やにわに731部隊が使用していた軍票を取り出し説明しだした。もう私はいくらでも懺悔しようという気になり、そうすることで、彼女との距離を少しでも縮めようと考えた。しかし、彼女は説明を終えると最後にこう締めくくったのである。『これはとても珍しいものです。100元ですが、日本に持って帰ればもっと高ぐで売れます』。懺悔し、喪に服し、平和を希求することで少しも彼女と同じ立場に立とうとした私の目論見は、一瞬にして消え失せた。私は、まるで仕組まれた罠にまんまとひっかかった、こざかしいキツネである。」*10

 

*10 富山一郎、『戦場の記憶』、日本経済評論社、1995

 

私は97年5月に同地に訪れた。一階の入り口に小さなお土産品カウンターが設けられ、なかに富山一郎のあげた「軍票」ではないが、「満州中央銀行」という文字が印刷してある「満州国」時代の紙幣が並べられている。「当時の日本帝国主義が東北地方で経済的な略奪の証として」売っているとカウンターのスタッフがいう。そして、陳列館とお土産カウンターとの関係を副館長の金さんに尋ねたところ、「直接関係ない。あそこは個人経営の契約制で、毎月定の賃借料を陳列館側にはらうことになっている。賃借料は陳列館の運営費に回す」との答えだった。

 

 

 

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