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(2) アレクサンダー大王とその遺産

アレクサンダー大王については、その偉大な生涯がこれまで多くの歴史家によって語り継がれているが、東西文化の交流の観点からアレクサンダー大王が果たした役割について最初に長澤和俊編「アレクサンダーの戦争」(講談社刊)を参照にしながら考え、次に大牟田章著「アレクサンドロス大王「世界」を目指した巨大な情念」(清水書院刊)を参照してアレクサンダーの人間性、彼が目指した東方遠征の意味について考えたい。

 

長澤和俊編「アレクサンダーの戦争」より

1] アレクサンダー大王の事績

アレクサンダー大王についてはこう述べられている。

「不世出の英雄アレクサンダーについては、今まで多くの歴史家および作家によって、その偉大な生涯がさまざまに描かれてきた。なにしろ大王は普通の人が100年や200年かけてもできないことをさっさとやりとげ、さてこれからというときにわずか33歳で短い生涯を終えてしまった。人は哀惜の情をこめて、その雄渾にして悲劇的な生涯を書き伝えたのである。」

「アレクサンダーの東征を、ペルシャ戦争以来のギリシャとペルシャの長い紛争の一過程として捉えた。紀元前490年のダリウス一世のギリシャ攻撃以来、ペルシャとギリシャは長い間抗争を続けた。ペルシャ戦争が終わってからも、ペルシャはいつもギリシャに干渉してきた。アレクサンダーの東征によるペルシャ帝国の征服は、ギリシャの長年の夢であり悲願であった。アレクサンダーの出現によって、ギリシャは一挙に巻き返しに成功したのである。」

「ギリシャから西アジアを経てインドまで、アレクサンダーの遠征はまことに雄大であった。そして東征に全力を使い果たした彼は、この事業を完成した後、まもなく永眠した。しかし、大王は各地にアレクサンドリアを建設したので、その死後、この地域にはギリシャ文化が普及した。そしてこのギリシャ文化は、やがて各地の文化と融合してヘレニズム文化を開花させ、その後の世界各地の文化に大きな大きな影響を与えた。特にアフガニスタンに残留したギリシャ人は、やがてガンダーラ仏教美術誕生の原動力となった。」

アレクサンダーが、その父フィリップ二世の跡を継ぎマケドニアの国王として即位したのは紀元前336年であった。翌年にはギリシャ諸国のマケドニアに対する謀反を制圧しテーベを破壊し、ペルシャへの報復戦争に備えを固めた。アレクサンダーの長年にわたる遠征のなかで宿敵ペルシャのダリウス三世との2度の会戦は大王東征の初期に小アジア半島で行われ、この2回のアレクサンダー大王の勝利が、ペルシャに対するギリシャ軍の優位を不動のものにしたとグラニコス川の戦い(紀元前334年)とイッソスの戦い(紀元前333 年)である。

翌年(紀元前332年)にはエジプトを解放し、ここにアレクサンドリア(アレクサンダーの町)を建設している。そして紀元前331年にはガウガメラでダリウス三世軍を破り、ペルシャ帝国はまもなく崩壊する。この後、数年を経てアレクサンダー遠征軍の志気は低下し、部下の幕僚からも帰国を促されてアレクサンダー大王がマケドニアへの帰還を決意した時点では、エジプト、小アジアからインダス川流域にまたがる広大な版図を持つことになった。(アレクサンダー大王の遠征路)

 

 

 

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