したがって、今日的にいうと、教養の基礎というのは、多くの日本人にとっては、コンピュータと米語の2つをいかにしてコマンドするかということが、かなり強い教養の基準になったりしているという現実がある。しかし、イスラム世界の方に関していいますと、歴史的にみて、湾岸戦争という一国の経験はイラクという単位でありますが、さっきいったように、イスラムというのは1つの帝国性、文明性を広がりとしてもっている世界ですから、それが、例えば欧米に部分的に分割された、植民地化された、あるいは局地的な戦争で敗北したということはあるけれども、歴史そのものの否定を含めたような敗北したという実感はないという事実があります。
2つ目には、人間にとっての思考や行動の基礎をつくるのは、やはり言語であると思うのですが、日本語というものが大きく変容したのに対して、アラビア語というのは、そうではない。あえていえば、アラビア語というのは、フランス語と同じように、いつも新しく時代に対応するようにして、アカデミーがそれを見直し、外来語などを入れようとしない。こういう中で、しかもアラビア語の基礎にあるのは、毎日コーランを聞くということでして、コーランそのものという極めて宗教的、かつ精神的なものをアラビア語の基礎として、いつも聞くことによって再確認するようなカルチャーの中にいる。その中で受けていく感覚からすると、変化というものが非常に遅い文明圏だといってもいい。これと日本との違いでいうと、変化の遅い分だけ、極めて保守的になるし、対応というものがある種固定的なものになっていく。これが、ある種の混乱に対する対応という点からすると、日本のようなラピッドな、スピーディーなものと、遅い、そして極めておくれることとの違いになっていくということかと思います。
したがって、アメリカのシステムや消費中心文化を、日本人は戦争というものとの代償で抵抗なく受け入れてきましたけれども、それに対しては、ある種の自分たちのもっている文化的な価値との関係で、受け入れていくことに抵抗がある。そこで、混乱というものは、あるところもありますし、ないところもある。日本はないかもしれないけれども、現実的に混乱というものが、アメリカのインパクトにおいて起きてくる世界もあるということが、まさに第1類型に対するチャレンジングファクターのファクターたるゆえんではないかということでございます。
○モデレーター
ありがとうございました。
松本さん、何か、さっきの言い足らなかった点がおありだと思いますから、どうぞ。
○松本
言い足りなかった点というのか、先ほど佐藤さん、公文さんから同じように、アイデンティティーゲームは成立する要素がない。あるいはまた、アイデンティティーをしっかりもっていることを自慢の種にする必要はないということが述べられておりましたけれども、現在、世界に起こっている混乱期、あるいはこれから近代が終わる、近代国家、ネーションステートが用済みになったといわれているような混乱現象は何によって起こっているかというと、例えば、バルセロナオリンピックが10年前にありましたけれども、そのときにテレビで風景が出てきます。オリンピックの会場から中継をやっている、例えばマラソンをやっている場面が映し出されます。