ところが、近代の原理は、本来それとは逆であって、特殊主義というか、パティキュラーなものを追求していくはずなのです。ただし、これまでの多くの人は、理論的、思想的な根拠を全部古い文明の偉大なイデオロギーに頼っている。キリスト教とか、イスラムとか、儒教もそうです。そうすると、どうしても普遍主義の言葉で語るようになって、そして、自分のところはいいものだとだれだって思いますから、どうしても、みんな当然であるというのです。しかし、あのアメリカでさえ、近年の情報化の中で、いろいろな人がいっていますけれども、むしろ一種の特殊主義というか、例えばインターネットのルールをグローバルなルールと考えるべきではない。あれは、ローカルオーディナンスにすぎないということを、ほかならぬインターネットの父といわれる デービッド・ファーパーは、しきりに強調いたします。つまり、あれをそのままよそへもっていって通用すると考えては大きな間違いなのだと。そういう自覚が起こっていることは、まさに近代の終わりではなくて、近代の成熟だろうと思うのです。
これからの近代文明の先進国は、むしろそういう自覚の方を強めるに至るのではないか。だからこそ普遍主義的に争おうとはしない。その意味でアメリカは敵を必要としているとか、一般に人間は心理的にそうだということは私も認めますけれども、同時に、敵がむしろ環境であったり、コンピュータのバグであったりするという状況がたくさん出てきますと、何も人間同士が争わなくても、戦わなければいけないものがいっぱい出てきますから、しばらくは、そっちの方に気をとられざるを得ないだろうという感じもします。そこはわかりません。
○モデレーター
次のコメントをお願いする前に、先ほど公文さんは、混乱が起きる。だから政府の役割は増大というお考えだったと思いますが、その間において、例えばナショナリズム、ナショナリスティックな考え方、あるいはナショナルアイデンティティーという問題は、どのように登場するのか、しないのか、そこら辺はどのようにお考えですか。
○公文
先ほどの普遍主義というイデオロギーを自覚的に否定する、反省するところに、むしろアイデンティティーを求める。自分たちは何者か、我々は何を価値とするのかということを改めて問わなければいけない。しかし、そのアイデンティティーは、人に要求するものではないわけです。どこまでよくアイデンティティーを確立したかということを自慢の種にするということはあり得るかもしれませんが。
○モデレーター
ありがとうございました。
山内さん、何か。
○山内
混乱の問題に関する質の問題なのですけれども、日本が感じる混乱と、例えばイスラム世界が感じる混乱との間には質の違いがある。それは1つには、今、公文先生がおっしゃった文明の質の違いもありますけれども、やはり歴史の経験というのがあると私は思うわけです。
日本とイスラム世界の根本的な違いというのは、全体として欧米に対して正面切って覇権の争奪をめぐる戦争を行ったという経験があるかないかです。非常に大きな戦争をして、それによって固有の文化、それは天皇制に関する解釈も含めた、ある精神文化というものを変えざるを得なかった、あるいは捨てざるを得なかった日本は、敗北の教訓の中でアメリカのテクノロジーや生産力、ひいては消費中心文化を学ぶということは容易だったわけです。しかし、その代償として日本人は、例えば日本語の表現能力の問題1つとっても、漢文や古文といった人間のアイデンティティー、教養の基礎にあった知識、まさに知のある問題ですが、それが捨てられた。