ロシアの独自路線追求傾向を抑えるかわりに、NATOの拡大はそれを助長するのではないのか?1997年の9月には国連本部でロシアとNATO側諸国は恒久連合会議(The Permanent Joint Council)を正式に発足させた。17ヶ国の外相は平和維持、軍縮、核戦略、テロ対策、軍事産業の民間部門への転換、それに汚染した自然環境の回復への大いなる夢のビジョンを謳いあげた。しかし一年後には、「NATOとロシアの連合会議は相互不信と幻滅と官僚主義の惰性のために失速状態となった」のだ24。
ロシアは非協力の姿勢に後退し、相互に非難し合ったり不信感を強めるようになった主要な安全保障問題に対して明白に反対し邪魔する態度をとるようになった。コソボでは、ロシアはセルビアに対する国連常任理事会による如何なる軍事介入を承認する決議にも拒否権を行使する旨の警告を発した。西側の外交筋によれば、6ヶ国からなるコンタクトグループは、7月にボンで開催した会議の席では12時間にわたって相互非難が続いた末、ロシアが住み慣れた故郷を追われた二十五万人の難民を救助するためにセルビア軍に対して、軍事介入はおろか、いかなる制裁措置の強化にも反対した結果、会議は決裂に近い状態に陥った25。ロシアはまた、怒ったトルコの報復干渉への言及にもかかわらず、ギリシャ半島のキプロスにS-300型対空ミサイルを売却する行為に出て敢えてキプロス問題を再燃させる挙に出た。モスクワはまた、1998年度の核爆発実験にもかかわらずインドとの相互防衛関係の再開に際して内容の削減や、イランに対する核技術の移転の停止を拒否し、国連の対イラン制裁措置の緩和を要求し続けたのだ。ワシントンがモスクワが国際問題に関して非協力的態度をとるのは大国の幻影を追い続ける行為だと非難すれば、ロシア側も反撃に出て、米国がロシアに当然認められるべき安全保障に関する国益を蹂躪し、ロシア国内の極右民族主義者達からの報復の危険を犯していると主張している。両国間の意見の相違は多分にロシアNATO会議に対する相互に矛盾した解釈が原因となっている。
ロシア側は、この会議に参加することでNATOの活動に対して相当の影響力を持つことができるとの期待を持った。しかし、ワシントンの立場は、ロシアはNATOの会議の席での発言権は認めるが、その決定に対して拒否権は承認できないとするものだ。1997年9月以降ロシア国内での状況が悪化を続けた結果、ロシア側の安全保障問題に関する主張を米国側が真剣に取り上げる方向には事態は動いてはいない。
冷戦時の安全保障機構の相違
The Differing Cold War Security Architectures
冷戦構造の軸の一つは、大国としての米国とソ連の間の相互敵対関係であり、第二の軸は世界中の諸国家を二つの陣営に分けてしまった過去の常識を超えた規模の抗争であった。
人類の歴史が始まって以来始めて、二つの大国が出現し、単にヨーロッパやアジアに止まらず、全世界を覆う敵対関係を生み出したのだった。冷戦下の抗争とは、軍事能力と保有資源の点で質的に際立った優位を保持するがゆえに、戦後の国際関係のあり方を思うが侭に形成する能力を持った二つの国家を中心とし、彼らに支配されたグローバルな規模での抗争であった。