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ロシアのNATO拡大に対する態度の変化に関する説明を終える前に、クリントン大統領が就任した1993年初め以降のエリツィン政権の主な反応を考察する。

 

クリントン大統領はロシアとの「戦略的パートナーシップ」について発言し、文書にもしてきた。ロシアを「戦略的同盟国」にも等しいと呼ぶことまであった。エリツィン大統領は1993年2月に、米国及びNATOとそのような特権的な「特別な関係」を結ぶことを求めた。これはNATOを拡大することなく、「欧州における旧ソ連の同盟国」の全てに「安全を保障する」ための協力であると発表された。また、エリツィン大統領は、冷戦が終結し、もはやワルシャワ条約機構が存在しない以上、NATOは解体するか、OSCEの下部機関に組織変えして、ロシアとともに平和維持及び安全保障の監視を行うべきだと主張した。

 

エリツィン大統領はさらに、ロシア軍が旧ソ連諸国(現「独立国家共同体(CIS)」)の平和と安全保障の守護者として活動する構想を打ち出した。そのような国際的任務は、軍事力を行使してでも紛争を防止し、終結させるために、危機発生時にロシアが担うべき役割について国連とCSCEの承認を得なければならない。当時、ロシア軍はCIS諸国内で反政府イスラム勢力やアフガニスタンからの侵入者と闘っていた。政治的イスラム主義者、カスピ海地域で開発が期待される膨大な石油・ガス資源、それにロシア国内の北コーカサスにおける深刻な状況(チェチェンでの分離独立派との紛争)が、西側に暗い影を落としていた。確かにロシアは近隣諸国の脅威になる可能性があった。失われた帝国はCIS(「隣接する外国」)として政治的に再編されたが、それを経済的に「再統合」(コーズィレフ、エリツィン発言)しようとする「ロシアの新帝国主義」は、東欧だけでなく西側にも来るべき危機を予感させるものであった。

 

ロシアと他のCIS諸国(ベラルーシ、トルクメニスタン、ウズベキスタンなど)とが結んだの共通の国境の安全保障、防衛・防空、軍備及び軍隊の命令・統制に関するさまざまな協定、クリミアをめぐってロシアがウクライナにかける圧力、独立したモルドバ内の「トランスネストリア(Transnestrja)」への現役ロシア軍の配備などは、危機の可能性を強めるものであった。1993年までには、ボスニア内戦とこの欧州の紛争に対して、ロシアは矛盾した姿勢を取っていた。ロシアはセルビア寄りの姿勢を取り、ボスニアのセルビア人を保護する政策を取り、ベオグラード<ユーゴスラビア連邦共和国政府>がクロアチアとボスニアでのセルビア人化政策を支援していることを国連でかばっていた。これらのことは、ロシア近隣の独立国または旧同盟国にとって唯一の「安全地帯」としてNATO加盟を希望する傾向を強めた。西側諸国は危機にさらされた人々の救済や、ボスニア内戦終結のための旧ユーゴスラビアへの軍事介入をしようとしなかったが、これもモスクワがNATOへの圧力を強める一因となった。ロシアは容易にはNATO拡大を受け入れなかったが、慎重だった。結局、ロシア政府が正式にはNATO拡大を受け入れないことと、しかし、例えばバルト3国やウクライナの加盟を阻止するための物理的行動を取ることはないことは明らかだった。

 

 

 

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