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当時も<事実上>ソ連が占領する「ドイツ民主共和国」国内には50万を超えるソ連兵がいた。ソ連政府はまだソ連軍のポーランド撤退にも同意していなかった。ポーランドは1991年初めにはソ連との関係を維持していたが、ロシアを怒らせずに、できるだけ速く平和裡にソ連軍が撤退してくれることを望んでいた。プラハではバーツラフ・ハベル大統領はソ連が作成した条約案の交渉を止めた。この条約案には、元ワルシャワ条約加盟国はソ連政府がその条件に同意しなければ、新たな同盟関係または安全保障協定を結ぶことはできないとする条項があった。ルーマニアのブカレストでは、当時の「ポスト共産主義」政権がルーマニアのためにこの文書に調印し、ブルガリアのソフィアではイリエスク大統領のもとでまだ政権を握っていた共産主義者が、ルーマニア<訳注:「ブルガリア」の誤記だろう。>のためにそれを受け入れた。

 

これは、ハベル大統領がモスクワを非難し、ドイツ以東に対する「新ヤルタ体制」の創設に反対した最大の理由である。まずチェコ、ポーランド、ハンガリーの政府は、中欧に安全保障地域を創出するための3国友好関係の創設を考えた。これが「ビシェグラード協定」であり、3国の首脳がこの構想を実現するために会合した場所<ブダペスト郊外の町ビシェグラード>に因んでそう名付けられた。しかし、1992年に、この考えからこれらの国々のNATOとECへの加盟を認める余地が生まれた。その結果、「ビシェグラード協定」はレク・ワレサ・ポーランド大統領が「中欧における安全保障の真空」状態、西のドイツと東のロシアの間にある「安全保障の空隙」と呼んだもののシンボルとなった。これは中・東欧をめぐる新たな独ロ協商と、ポーランドを西側から遠ざけておこうとすることに対する懸念であった。これを受けてポーランド、チェコ、ハンガリーの政府は、彼らの安全保障に対して「東からの脅威」があると主張した。すなわち、ロシアが無政府状態に陥ったり、再生前のロシアの国内が混乱した場合、あるいは再生ロシアの「帝国主義」により、ロシアの西隣りの国々が脅威にさらされるリスクである。これらの国は、NATO経由も含めて、米国と同盟関係がないからである(NATOは米国の軍事力による戦略的保護下にある)。これらの国の主張はいずれもロシアに向けられたものだった。したがって、NATO拡大は初めからロシアを中欧の安全保障上のリスクと見なして、これを守るものという性格があった。NATO拡大の主旨は「可能性は低いが、欧州で戦争が起きる恐れがあるため、これを回避するための対抗措置としての保険」(ヴェルナーNATO事務総長)とされた。これに対してモスクワは、ロシア以外の地域での戦争に対しては、NATOの東方拡大は安定促進のための戦略的動きと言えるだろうかという疑問を投げかけている。

 

4. ロシアは一般的にはNATO拡大に怒っており、公式には反対している。しかし、公式に発表された政策ではNATO拡大に反対し続ける一方で、「NATO/ロシア協議会」(ロシア軍とNATOとの間に緊密な関係を確立するために、1997年5月のパリ「基本文書」により設置されたもの)の設置のような外交的な矛盾もあり、モスクワはNATO拡大に対するロシア側の「対応」として1993年以降発表してきた全ての「対抗措置」を、当分の間放棄した。

 

 

 

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