その結果、第2次NATO拡大計画では、拡大NATO内で他の同盟国とハンガリーとが国境を接するようにするために、おかしな迂回をすることになった。すなわち、イタリアとハンガリーの間にあるスロベニアの加盟案である。
これは「安定の移転」を行うための戦略的政策としてNATOを人工的に拡大すると、どのような結果になるかを示す例である。アルバニアの候補問題はまったく別として、もう1つの例としてバルト3国の加盟問題がある。NATOがバルト3国にまで拡大すれば、直接ロシアに接することになるから、ロシアが問題になる。一方、南東欧州へのNATO拡大で問題になるのは、バルカン及びドナウ川下流地域(ルーマニア、ウクライナ両国と接するモルドバ。その東隣りはロシア、南はトルコ)におけるNATO=ロシア間の政治的競争の可能性だけである。黒海同様、欧州の北東、南東及びバルト海地域で問題なのは、両立しがたい目標、精神性及び地政学的、軍事的伝統のために、西ヨーロッパとロシアの安全保障上の利益が大陸規模で対峙していることである。NATOの拡大に対しては2つの相反する見方ができる。これはコーズィレフ元ロシア外相が西側とロシアの間の「一向に進まぬパートナーシップ(Lagging Partnership)」(1994年にフォーリン・アフェアーズ誌に書いた著名な論文)について述べたことだが、1つはロシアとの「友好回復」及び「ロシアの西側面を安定化させる」ものだという見方であり、もう1つはロシアを「排除」し、欧州とロシアの間に「新たな緩衝地帯」を設けるものだという見方である。もちろん、ブリュッセルのNACが後者の見方を認めたことはない。また、ロシアはNATOの拡大を「新ヤルタ体制」の創設、あるいはロシアに対抗するための欧州の組織化、少なくとも「欧州を分割して再び冷たい平和にすること」(1994年12月初めにブダペストで開かれたCSCEサミットでのエリツィン大統領の発言)だとして非難しているが、NATOはこれを常に否定してきた。
3. NATO拡大に対するロシアの態度を詳しく検討する前に、NATOをドイツ以東の東欧にまで拡大するための東欧における理由付けと議論を簡単に振り返っておく必要がある。東欧はソ連解体3ヵ月前の1991年4月にワルシャワ条約が終了するまでは、ソ連主導の「ワルシャワ条約」機構の領土だったからである。ソ連と欧州内のロシア「外部帝国圏」末期の危機に際し、ゴルバチョフ政権はワルシャワ条約加盟国に対して新たな同盟関係または安全保障条約を提案した。その主たる条件は、ソ連に「敵対的」と見なされる第3国または国家グループと安全保障協定を結ばないことであった。当時、ブリュッセルのNATO本部はNATO拡大を考えていなかったし、いかなる議題にも上っていなかった。ドイツはもちろん、米国やフランスがNATO拡大を考えていなかったことは確かである。ドイツ再統一政策で最重視されたのはモスクワを納得させることだった。(旧東ドイツにはまだ数十万人の元ソ連軍がいた。)ゴルバチョフは1990年2月に、NATOが東ドイツに拡大することを明確に拒否した。