他の欧州NATO諸国、すなわちイギリス、フランス、イタリア、スペイン及びノルウェーは1992年〜1994年にはNATO拡大にはそれほど関心がなかった。しかし、彼らの態度は「中・東欧3ヵ国」の加盟承認に向けて変化し、1994年初めまでには全てのNATO加盟国が、クリントン政権が多くの議論と躊躇を経て1993年秋に欧州の地図に暫定的に引いた線<加盟候補国>に合意した。
その後、フランスとイタリアは「第1次加盟候補」にスロベニアとルーマニアを含めるよう提案した。だが、ロシアはこの案に強く反対した。ロシアが最も強く反対するのは、ポーランドとバルト3国のNATO加盟と思われる(エリツィン大統領は1993年初めにワルシャワで行ったワレサ大統領と会談で、いったんはポーランドのNATO加盟を受け入れる可能性を表明していた。また、ロシアにとり全バルト地域との関係は最も重要である。)。そこで、バルト3国のNATO加盟案は西側の選択肢から真っ先に外された。その後、西側諸国はNATO拡大に消極的だったが、1997年に再び積極的になり、まずワシントンで、続いてマドリードで開いたNACで「第1次加盟候補」が決定された。バルト3国のいずれもEU及びNATO加盟候補に含めなかったことで、中欧以外の国の加盟は時期尚早と考えられた。そこで、クリントン大統領は、結局、フランス、イタリア、ギリシャ及びドイツが提案したスロベニアとルーマニアの加盟招請を見送った。イギリスは特に明確な態度を示さなかったが、反対はしなかった。
NATO拡大は全て欧州の問題である。同盟や安全保障政策の戦略的意味を論ずる上で、欧州を「グローバルなプレーヤー」として考える理論はない。米国は1994年にもそれ以降も、「欧州のNATO」あるいは世界政治における独立の行動主体としてNATOを考えたことはない。その理由は明らかである。欧州諸国には戦略的兵力もなく、欧州にはいかなるグローバルな政治的野心もないからである。欧州は米国の力とリーダーシップに依存している。ボスニアやコソボのような欧州の紛争や危機でさえも、(SACEURを介して)米国指揮下のNATOと「欧州連合軍」に技術的、軍事的に依存している。指揮・統制のためのハイテク軍備、ただちに介入できる軍事力、バルカンのような大規模な紛争地域での軍事行動の遂行を統制する組織という点で、そのいずれも不十分な欧州が危機や紛争に際して独立単位として軍事行動を取るという選択肢はきわめて限られている。
たとえWEU(西欧同盟)が新たに組織された「連合軍」を使ってNATOの下部組織として行動し、また、米国自体は積極的に参加せずに、NATO内の米軍を使用することに米国が同意し、許可するとしても、WEUは米国の軍事力や戦略的軍備に取って代わることはできない。米国及び(軍事行動はNATOが行うという)NATO体制への依存が続いたことが、1995年以降ボスニアにおけるIFOR/SFOR(平和実施部隊/平和安定化部隊)設置の要因となったのである。