三和町の新しいコミュニティづくり活動
石川憲一(茨城県三和町総務部企画課まちづくり推進係主幹)
はじめに
三和町は、関東平野のほぼ中心、茨城県の県西地域に位置し、高度経済成長の影響を受けた昭和40年代中頃からの人口増により、三村合併当時(昭和30年)に比べ約2倍の人口になっており、首都圏のベットタウン的性質と、旧来からの農業主体の産業構造との双方の性質を併せもっております。
面積は49.78km2で、大きな起伏、河川、湖沼等もなく、気候的にも過ごしやすい穏やかな土地であります。
交通の便からいえば、町の西部を南北に走る新4号国道が平成4年に開通し、東京方面への利便性が格段に良くはなったものの、鉄道等はなく、住民の交通手段は自家用車が主要にならざるを得ません。
人口増については、4万人を超えた平成8年頃から横ばい状態であり、高齢化率も12.0%(平成10年10月1日現在)と全国平均よりも低い数値ですが、いずれは飛躍的に増加する可能性があります。
自治の“ちから”の低下
約30年前までは純農村地帯ともいえる土地であった当町は、良くも悪くも旧来の“ムラ社会”の性質を色濃く残しており、自分たちの地域は自分たちで良くしようという傾向がありました。主にかんがい用水路の清掃作業や自警・自主防災活動、冠婚葬祭などで地域共同体の助け合い精神が機能し、それが地域文化を形成していた訳ですが、その反面、個人は主従関係に縛られているという側面があったことも否めません。
その後、高度経済成長の影響を受け、交通機関の発達、近隣地域での工業団地の形成等により、人口の流入が急増したことや、マスコミ等の発達により人々の価値観も変化していきました。これにより生活の利便性は飛躍的に進歩しましたが、地域の共同体は崩壊し、住民自治の“ちから”は低下していきました。
また、自治組織は、都市にあるような自治会ではなく地緑団体から発展した集落を基礎に、町内を71(平成11年2月現在)の行政区(町内会自治会的組織)に区割りされております。
昭和50年代に急激な人口増加があったのですが大規模な住宅開発は無く、ミニ開発により旧来の組織に新たに流入されたケースが多く見受けられ、価値観の違い等によりトラブルが生じるケースもありました。また、少子・高齢化及び個人主義の風潮の中で行政区加入率は年々減少しており、行政側とのパイプ役機能と、住民の自治機能を果たしていた行政区組織は存在がゆらぎはじめ、特に自治機能については脆弱化が著しい傾向にあります。