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(3) 複合施設としての小学校であるから、校長の責任は教育活動に原則として限定され、施設管理者という役割からかなり開放されている。日本の学校の場合、校長の管理責任が施設全体に及ぶため、学校の地域社会的利用が限定されがちになっているのと対蹠的である。

日本のコミュニティ・センターと違うのは、次の諸点である。

(1) 日本のコミュニティ・センターが集会室の集まりに過ぎないのに対して、大人も子供も学習したり、スポーツをしたりする場になっている。

(2) 小学校教育と、福祉サービスが総合化されている。そして上に述べたような各種の住民活動の場とも総合化されている。

フリントの例が、長年小学校長を努めた、ある人物の反省から生まれ、その熱意に感じた地元の資産家が経済的援助をし、教育委員会がさまざまな制度的援助をし、また州立大学が研究所を一つ設けて支援しているという経緯を考えると、学校側、地域社会側双方のコミュニティの原理的な理解の共有と、それに基づく協力が何よりも大切であることがわかる。

さしあたって、これからはコミュニティ・センターの建設に当たっては、原則として学校と隣接して作ること、逆に学校の建設に当たっても同様の配慮をすることなどで、長期的には学校とコミュニティ・センターの隣接という状況を作ることが望まれる。すでに現在そのような状況の場合は、さらに進んで施設の共用などから、上に述べたような環境へと徐々に近づくよう、学校側も、地域社会側も経験を積んで行くことが大切であろう。

日本でも神戸市の高倉台小学校は、公園と接続しコミュニティとの結びつきを設計段階から考慮した仕組みになっている。日本でもここまでやれることを示している。学校には運動場はなく、学校に隣接した公園は、平日の昼間は学校の授業に、夕方から、そして休日は地域の運動場となっているなど、さまざまな工夫が組み込まれている。

学校区への着目とコミュニティレベルの自治組織

施設としての学校とコミュニティ・センターの結びつきの問題とともに、地域社会の中での学校の位置付け、計画論的にはコミュニティ単位としての学校区の問題がある。

学校は本来、住民にとって自治のシンボルであり、民主主義の草の根である。しかし現在の学校は、そのような意味の重要性を維持している場合は少ない。

明治初期の学校を支えたのは、学区の住民であり住民団体であった。地域住民と学校、特に小学校との強い結びつきは、この明治期の学校設立の経緯に始まる、といってよいであろう。学校は住民が自分たちの力で作ったものであり、したがって自分たちのものであるという意識は、多くの地域に残っている。町内の運動会は、学校の校庭で開かれる、それは学校行事であるとともに地域の行事でもある、という慣行は、しだいに少なくなっているとはいっても、まだ多くの地域に残っている、少なくともその記憶は残っているといえよう。中部地方では、校下婦人会、校下町内会というように、校下という名前で、この記憶が残されているところが多い。校下とは学区という意味である。このように、地域の各種団体の地区割が、小学校の学区を基礎として成り立っているところが多い。このように学校を核として、住民が自治の草の根の責任を負うことには先例があり、その記憶があるのである。

コミュニティ行政は、小学校区を標準的な範域として、住民の自発的なコミュニティ活動を活性化するという方向性をもって開始されたが、コミュニティ・センターという物的施設を中心に構想され、住民活動の組織化をバックアップする制度的な施策が不十分なまま進められたため、成果は、自己充実活動が活発に展開したにとどまり、問題解決型の共同活動を促進し、自治意識を高めるというには至っていない。歴史的に住民にもっとも近い関係を持つ小学校を中心として、学校区にコミュニティ・レベルの自治機能を持たせ、自治の草の根の単位として育てるという方向が検討されて良いであろう。

 

 

 

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