坊主になって蓬庵と名乗った訳です。この辺の硬軟の使い分けというのは上手いわけですけれども、私はやはりこの渭津・渭山というものを徳島という更に前に発展させた地名変更をしていったというのは、明らかに毛利元就に無かった、織田信長の岐阜の精神、つまり周の武王の精神がこの時代にあったんではなかろうか、こういうふうに思う訳であります。
勿論、史的根拠があって私はそういうことを申し上げている訳ではなくて、自分なりに当時の事を今の分権との結び付きで関わりを持たせればどういうことなんだろうということを考えると、そういう牽強付会の説にいきつくわけであります。その意味合いにおいては、阿波踊り、これはもうご案内の様に発生を考えれば盆踊りですよね、地方にあったおそらく精霊祭りであります。しかし、それに新しい息を吹き込んで民衆全体のお祭りとし、今はもう徳島といえばイコール阿波踊りという位世界的にも有名な文化に押し上げて行ったのも家政入国以来だとこう言われています。ただ踊らせとけばいいんだという事ではなくて、産業も振興しなければいけない。こういう事で、いってみれば阿波藩が徳島藩が自活の道を財源調達の自らの道をたどっていく。
じゃあそのためにはどうするか。この地方には部分的ではあっても、藍作りが吉野川流域で行われていた。これに更に中国地方の方から進んだ藍の技術を導入して、そしてこれを藩全体の産業にしていこう。こういう事であります。でありますから、今だに残る藍大尽、或いは吉野川の向こうにかつての市長さんだったか知事さんだったか三木さんのお家なんかも資料館が随分残っていて、私も見せて頂いた事がありますけれども、実に大変なものです。この阿波踊りにしても、もともとはこっちの地方ではなくて、その藍商人達が潮来の方から持って来た、よしこの節と言われていた、それをこういう形にアレンジをして民衆の祭りに変えていった。この辺にやはり信長の時代から受け継がれてきた、その願望の自己向上をしたいということやパフォーマンスをしたいということの一つの欲求の実現がすでにあったのではなかろうか。あの七つの戦国民衆の願いというものをどんどんここで実現をしていきたいという、いってみればここの地を一つのユートピア、いわゆる理想郷にしていきたいという考え方があの時代の人々全てあったろうと思います。
ここの藩で言えば、11代目の藩主に秋田の佐竹から来た重喜という人がそのへんのところをもう一度復活しようとして努力をしたわけでありますけれども、うまくいきませんでした。何故うまくいかなかったか。私はやはり急ぎすぎたかなという事と、もう一つは派閥でそれを行おうとしたかなと、こういう気がいたします。