従って、分権だけではなくて、逆に今度は、広域行政として連合してやらなければいけない仕事も一方ではどんどん出てくる。そのためには先程申し上げた住民の皆さまと議会の諸先生と執行機関の三位一体の、いわゆる公助・互助・自助の精神がいよいよ発揮されてこなければならない、そういう歴史的な転換期にちょうどこの20世紀が終わろうとしている時期が遭遇しているんではないんだろうかという事であります。
もう一つは、このローカルマキシマムの実現を急ぐあまり、いわゆるナショナルミニマムの問題を忘れてはいけないという事であります。どうしてかということ、今日おみえの皆さまもそれぞれ三つの人格を持っていらっしゃる。三つの人格というのは何であるか。日本の国民であるという事、徳島県民であるという事、いずれかの徳島県内の市町村民であるという事この三つであります。となりますと、先程平和に暮らしたい、豊かに暮らしたい、或いは平等に暮らしたい、正しく暮らしたい、自己向上をしたい、パフォーマンスしたい、こういう人間としての6つの願いの行く先が違ってくる訳であります。平和の問題とか、或いはお金の統一とか、経済のいわゆる発展とかというのは地方自治体ではどうにもなりません。これはやはり政府、特に宮沢さんにお願いしなくてはいけない事であります。そうなると、皆さまが三つの人格のいわゆるニーズというものを分けた時に、それぞれの行く先が変わってくる。それを処理していかなければいけないという事であります。
つまりローカルマキシマムといっても、この地方自治体が無定言・無定量にあるゆる皆さまのニーズを実現できる力は持っておりません。又それは、そういう事はしてはいけない。いわゆる行政を扱うすみわけがやはり三つ分かれるという事であります。つまり国と地方、地方の中でも県と市町村。こういうものに分かれてくる。このへんのいわゆるすみわけに関する御認識も深めていっていただきたい。「何でもかんでも自分の所でやってくれ。」「やってくれない。あいつら税金泥棒だ。」こういうことではなくて、やはりこのニーズというのは何処へ向けるべきなんだろうかという、相手側の振り分けということを御認識頂きたいということ、これが一点であります。
もう一つは、このナショナルミニマムとローカルマキシマム。つまり国と地方の関係が今後は縦の関係ではなくて、横の関係になってくるという事であります。結局地方分権の推進の過程において、私はそれぞれモンロー主義をとるべきではない気がいたします。
昨年『毛利元就』というドラマが放映されました。あのドラマの趣旨というのは、私の考えていたものとはやや異なりまして、内館牧子さんという女性の脚本家がお書きになりましたから、後で振り返ってみると、あのドラマの言いたかった事は、戦国の女性は絶対に年をとらない、こういう事だったかなという気がいたします。