日本財団 図書館


従って少し低くしよう。謙遜しようという事は、明らかに織田信長の政治意図の中に、自分が日本の周の武王になりたい、なろう、こういうポリシーがあったという事であります。こういう地名をつくったのは、信長以外ありません。あるいは、ここの徳島の以前の渭津・渭山以外にありません。中国の地名をそのままこっちへ持って来ている訳です。しかし、渭津といい渭山といい岐阜といい、すべてその出っぱは岐山であります。つまり滑水のほとりの周の武王が起こった岐山であります。結局、信長が目指したのは何か。彼はいわゆる若い時から、尾張の名古屋近辺にいた時から、たわけ、うつけ、或いは、馬鹿、ばさら、ろくな事を言われておりません。しかし、何故そういうような悪口を言われて来たかといえば、彼自身は、常に寺山修司さん流に言えば「書を捨てよ町に出よ」、つまり城の中にこもっていたのでは住民の本当の行政需要、どういう物を欲しがっているか、或いはこうして欲しいというような事が掴みきれない。だから表に出て、直接住民と接触をして、そのニーズというものを自分の身につけていこうとこういう事をやって居りました。

従いまして、彼が岐山を意識して岐阜という地名変更をし、その裏にある自分が周の武王になりたいという事の裏には、私は当時の戦国民衆がこうして欲しいと、こういう事を願っていたというのがあったろうと思います。それでは、信長が把握した戦国民衆のニーズ・行政需要というものは、いったい何であったろうかという事であります。この事自体は、信長のやった事から逆算いたしますと、7つあったろうと思います。1つは平和に、2番目は豊かに、3番目は平等に、4番目は正しく、5番目は自己向上できる、そして6番目はパフォーマンスできるという事であります。平和というのは、言うまでもなく戦国時代を一日も早く終わらせたいという事。これは特に戦国時代に生きていた女性の悲願であります。女性の立場からすると、戦国大名が勝手に合戦を行う。その度に身近な夫、子供、兄弟が引きずり出されて、死んだり傷ついたりする。いやだいやだ、どうしてもっと平和にこの国で暮らせないんだろうか。或いは都市部で生きていれば、敵の城下町だということで、すぐ火をかけられる。生命・財産が危うくてしかたがない。或いは農村部であれば、年の営々とした農民の努力を、黒澤明さんのあの七人の侍のように、いつかたもなく山賊や野党が来て奪い去っていく。こういう事を早くこの国でやめてもらいたい。平和への願いという事は、やはり当時に生きていた女性達からの切実な願いであったわけであります。やはり信長はこれをやりたい。

豊かにということは、収入の事であります。これはつまり自分の能力、技術というものが生かされて、黄金の収入が得られ、自分と自分の家族が人並の暮らしが送れるようにしたい、こういう事であります。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION