どういう意味があったか、この麓からおこったのが周であります、そしておこしたのが周の武王という人であります。この人は、今だに言ってみれば孔子とか孟子という古代の思想家だけでなくて、現在の中国の最大の指導者である江沢民さんも尊敬をしているという人であります。何故か?愛民の政治を行っていたから、民を愛するという政治に徹底していた。ですから江沢民さんのある週刊誌に書かれた言葉を借りれば、この周の武王は、自分がやりたいと思っている今の中国政治の3大目標、「住民への奉仕」「反権力」「反腐敗」これを完全に為しとげておられた。ですから周の武王が政治を行っている時には、この国の人民は鼓腹撃壌していた。鼓腹というのは政治が動いている為に、どんなに貧しくても民のあらゆる人が、おいしい物でお腹が鼓のようにいっぱいになっていた、これをたたいてよろこんでいた。或いは撃壌という事は、政治が行き届いて善政であった為に、地をたたきうれしさに踊り狂うという意味であります。これを実現していたという事であります。従いまして、初代の細川頼之がこの地域に渭津、或いは渭山、こういう地名をつけた考え方の底には、あきらかに中国の渭水の岸辺の岐山という所からうまれた、周の武王の政治思想があった事は、明らかだろうと私は思います。
つまり、ここにそういう理想郷を作りたい、桃源郷を作りたい、生きがいと死にがいと他国から人を呼べるようなそういう行き届いた国を作りたいんだ、こういう意図があっただろうと思います。そしてこのことを、入国して参りました近世初頭の蜂須賀家の初代である家政が、徳島というふうに変えたのは、やはり徳というものが、いかに政治にとって必要なのか、言葉の影響でありますけれど、人と徳、つまり民に対して親のような温かい気持ちを持った政治を行いたい、その拠点にこの渭津いわゆる渭山と呼ばれていた所に城を作っていこう、拠点にしていこうと、こういう事であります。何が申し上げたいかといえば、昔の為政者には、やはり今の圓藤知事と同じように夢がある、或いは理想がある、こういう物を具体的に中国に例をとって、地名に結び付けていったということであります。
蜂須賀家政は、元々は尾張の国の出身であります。ご案内の様に、木曽川のすぐ側に宮町という所がございますけれども、ここの出でございます、蜂須賀郡という所であります。彼が一時期長良川のほとりにいて、盗賊をしていたというのは嘘でありまして、地理的にも時代的にもちょっとあいません。