だからこわいものがないんです。こわいものがないという事は威勢がいい。非常に勢いが良くて活気があるんだけど、ちょっとそこを踏みはずすと、自分勝手になって、それこそごみをポイポイ捨てようが誰も言うものがおらへんので、マナーを守らなくても平気ということになりかねないんですよ。その自由闊達ないい気風がだんだん今日に伝わってくるうちに、自然と大阪人のマナーの欠如というか、道徳観が少し薄らいで来たんじゃないかなあという気がするんです。そこのところが今の環境問題につながってきて、平気でゴミを捨てても、何とも思わないような。例えば道路の端に車を止めたり、電車でも行列していても扉が開いた瞬間に横からゲリラのように乗り込むやつがおりますんでね。並んでいてもなんにも意味がないんですけど、その辺のマナーの違反というか、悪さというか、やっぱり江戸時代にさかのぼって大阪人の自由闊達な気風というものの言わば裏面の悪い方がちょっとでてきているかな、という気がするんです。
「始末」という美徳
その辺で、江戸時代のその自由聞達さを大阪人が身をもって戒めたひとつの大きな、信念、道徳と言ってもいいかもしれません。その道徳的なものは何だったのか。その基盤になっていたものは「始末」ということなんです。大変ありがたいいい言葉がありまして。今は死語のようになっていて、ついつい忘れられそうになるんですが。江戸時代の大阪人の自由闊達な気風を抑えるような、あんまり浮ついてたらいかんよというね。浮ついた気持ちをそっと引き締めるというのが、誰にでもどこの家庭にでもあった「始末」という美徳ですね。「始末」が一番の美徳だということがあの時代の書物を見ればわかるんです。
例えば井原西鶴が書きました、『日本永代蔵』という、商人論を説いた本があるんです。その中に金儲けの下手な商売人がおるんです。それが金持ちのところへね、あんたお金儲けがうまいようだけど何かええ方法知ってるんでしょう。方法あったら教えてくれ、と訪ねていくんですね。言葉悪いですが貧乏人が訪ねていくんです。大富豪がね、お前そんなことも知らずによう生きてきたな。教えたる。と言って教えてくれるんです。その教える方法の中にね。この「始末」が入っているんですよ。どういう形で入ってくるかと言いますと、お前さん、まず50両集めなさいと、50両とね、すり鉢持って来いと。その50両の内、20両が自分の仕事だと、20両は自分が仕事で稼ぐんだと思って、すり鉢にほり込めと。次、10両。その10両を「始末」だ、「始末」するんだと思ってほり込め。後は健康、達者だと8両。夜なべ仕事したんだと思って7両。早起きしたと思って5両。合わせて50両の金をすり鉢に入れて、すりこぎでよ〜く粉にして小さくかためて、それを富豪丸と名付けて、朝晩飲めと。これを飲んだら必ず、金持ちになると言うんですが、この富豪丸と言うのは大変効きめが強いので、うっかり飲んだらあかんと。これを飲むについては次の事を守れと、注意書きですね、今でも風邪薬とかをもらいにいきますと効能が書いてありますね。お医者さんも言います。今夜、風呂やめときなさいとか、酒やめときなさいとかですね、激しい運動を控えなさいとか、それと一緒なんですよ。この富豪丸は非常に効きめがあるので、次の事を守りなさいって言う。その守れって言うのが何かというとね。