「公共ホールの音響と地域文化」
日本音響家協会 宮沢 正光
【講義の概要】
○地域文化の拠点としての文化ホール
(中央文化を呼ぶだけが文化事業ではない)
ホールの文化事業の全国的な統計を見てみるとほとんどが有名なタレントさん、有名なオーケストラ、劇団を呼ぶという形の自主事業が多いですよね。でも、見ていいものだったらやってもいいものなんです。やりたい人たちは地域にいっぱいいると思います。
ぜひお願いしたいのは有名な中央で生まれた作品、グループ、芸術家たちを呼ぶことは必要なことだと思いますがそれだけに終始しないで、やりたい人たちともっと作る姿勢、一緒になって。その辺が地域の公共ホールのスタッフの必要な場面ではないかなと思っています。
(地域住民の文化エネルギーこそが明日の日本を作る)
文化というのは基本的には地域の祭りから始まると思います。昨日も言ったんですがジャン・ジャック・ルソーだって言っているんですから「広場に柱を立てて集まろうよ、そこでみんなで唄おうよ」これが文化だ、とルソーも言っている。
都会では隣の人が何をしているかさっぱり分からない。それがある意味では都会というおかしな社会なんですよね。それでもなおかつ大都会に行きたいと思わせるのはなんかの幻想を抱かせているものがあるんだろうな。もっと地域の中におもしろいことがあれば地域のために生きて働いて家族があって自然があって子どもたちがいて地域はもっと発展するはずじゃないかなと。そのために文化はあるべきじゃないのかなと考えています。
(共益性と公益性)
でも皆さん公共の立場から言うと、じゃどこか特定のグループにホールの人が関わろうとするとそれと同じことをこっちにもやってあげなきゃいけない。そんなのやってられないよという理屈が返ってきます。先ほどの桑屋さんの話であったように、だから人が足りないんです。
で、これまたおかしなことに、それは有料公演でしょ、有料公演は営利目的でしょ、営利目的にはホールの人間はタッチできません。という答えがどっかでかえって来ました。
お金がかかるから営利目的だと判断するのはどこからくるんだろうなと思います。お役所的な文化に対する考え方はナンセンスだと思います。
そのときに「そんなこと言っても少数集団じゃない。特定少数集団だろ、公共というのはそうじゃないんだ公益性が必要なんだ。あまねく人々に対して公益的でなきゃいけないんだと。という論理がもう一つ持ち上がってくる。
そんなあまねく人々に通用する文化なんてのは文化じゃないです。三味線が好きな人もいればエレキギターが好きな青年もいます。それをあまねくとするために結局文化って味のないものになってしまう。
みんな違う。じゃそれにまんべんなく応えていくのはやっぱり不可能だから止めましょうという議論に後退するのか、率先している人にまず一緒に手を貸して盛り上げていきましょう。そしたらここの人たちも、あ、俺たちも出来るんだとなるじゃないか、という考え方を取るか、どっちかですよね。
○ホールスタッフの立場
(文化の担い手は住民・・・たよりにされるスタッフに)
今回私が呼ばれた理由は、外部のスタッフとしてホールを使わせてもらう立場から、いろいろいってくださいというお話だったんですが。協力的にしてくれるスタッフのいるホールもあれば、「これとこれのマイク貸してください」というと「はい、マイクあそこね。」「テーブルは?」「テーブルこっちね。終わったらちゃんと元通りにしておいてよ」というホールも圧倒的に多いですね。そんなことにいちいち文句言うつもりはありませんけども、地域のそういう人たちとモノつくりを一緒にやっている人だったら、多分そういう対応にはならないと思います。われわれが外から入ってきたとしても、一緒に何かできないかなあと思います。まして、住民が文化活動をするときというのは皆さんを頼りにしているわけです。