だから、私としては芝居だけをするとか、人形劇だけとか、そういうふうに決まっていないわけです。子供たちに生の文化を身近にふれさせたいと思います。ですから、私たちが作り上げたり、良い芝居が身近で見れるということであれば呼んできて自主的に公演するということも行っています。
地元の施設を使うというのは使い手とそのスタッフの人たちに相談に行ったときに、いろいろ面倒をみてもらえる利点があります。私は専門用語がわからないので、ここにこういう形で下から明かりがきてだとか、上の方がポッと当たるとか、感覚的な話をするのですが、スタッフの方は「それをするにはこういう方法もあるし、こういう方法もあると思うけれども、一体内倉さんが言っているのがどういうものなのかわからない。」と言われます。
「それでは1回見てみるかい。どういうものなのかちょっと試してみるかい。」ということになり、「こういうふうにやったら、こういう明かりになるんだよ。こういうふうにすればこうなるんだよ。」と言ったときに、「あっ、そうそう。これがしたかったの。」と、舞台に関わる人たちと共に作り上げていくことができます。
私がいろいろやってきた中で、1998年の市民野外劇があります。場所はやはり野外劇をするには外。それで野外音楽堂でやろうではないかということになりました。演目は恵庭の象徴「エエンイワ(恵庭岳)」が良いと、同じ仲間でもあった小学校の先生が脚本を書きました。
最初は150人くらいのスタッフが必要になるのではないかと言っていたのですが、やっていくうちにここのところではもっと人が欲しいとどんどん多くなり、結局出演者は250名になったのです。
その頃、恵庭ではまだまだ自分が出演し、役者をやる人たちというのは本当に限られた人で、250人を集めるというのは至難の技だったのです。
それと、もう一つは、どこからも広告料は取らない、そして市の助成も受けない、自分らでやろうということになりました。だから、出演者がお金を払って、そして全て手作りでやろうと。音楽から照明まで全てを自分たちでやろうと無謀ともいえるような構想ができたのです。
それでは、スライドをみながら説明をしていきます。
(スライド説明部分は省略)
野外劇をやるというと、市の何周年記念で市の助成が絡んでいることがありますが、私たちの野外劇は何かの集まりでお酒を飲んでいる席で「皆であそこの野外音楽堂を何かに使おうよ。」とそこからスタートしました。そして、皆で手作りでやろうと。だから、全て初めてのことばかりで本当に役者は前々日になってようやく人が全部揃った。練習しながらも代役がいたるところに出てきて、一体その役は誰がするのかわからない状態で、皆で進めていったというところもあります。
だけど、作り上げてみて、皆の感動というのは本当にすばらしいものであったし、そして、市の人たちも「何だかすごいことをやるそうだ。」ということで駆け付けてくれたり、最後には本当にいろいろな方たちの手を借りて、市民演劇が出来上がりました。
この翌年には札幌の教育文化会館に乗りだそうということになりました。会場に問い合わせたところ、空いているのが12月24日だけでしたので、クリスマスだからやはりクリスマスものだよねということで、それから初めて出しものが決まったのです。このときは出演者150名で札幌に乗り込みました。
それからというものは、本当に自分たちで作り上げていく芝居というのが恵庭の中のいろんなところで定着したきたように思います。いつも大きい物はそんなにできないかもわかりませんが、小さないくつかのスタッフに分かれいろんな活動が今も続いています。
そうした活動をしていますと悩みも出てきます。練習場所の問題、それと大道具の作成の場所、公演終了後の保管場所の問題があります。
それと、私たちは習い事とかスポーツ団体とは違って毎週いつやりますというものではなくて、集中的に稽古場所が必要になってくるわけです。それも朝から晩までで、場面を人が入れ替わり、立ち替わりするけれども、とにかくその時間というのはずっと稽古していかなければ公演が迎えられないということがあり、ひと月の内に稽古場所が3か所移動ということもありました。