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ところが両者の置かれる方位は、陽である県衙が陰である西に、陰である城隍廟が陽である東に配置されているのである。これは、陰陽の相互補完のためであろう。

さらに南には、孔子をまつる文廟と関帝をまつる武廟がそれぞれ南大街の東と西に配置されている。文が東、武が西というのは、礼制に符号する。『老子』に「君子居則貴左、用兵則貴右」とあり、皇帝の前に整列する役人は、文官が東、武官が西に並ぶことになっていた。紫禁城の南に並ぶ役所群の配列も同様である。文廟期とかなりの時間差がある。武廟の建設地を決定する際に、南大街という中軸線を挟んで文廟と左右対称に、しかも礼制とも符号するように考慮されたのではないだろうか。

また、文廟などの文運を司る施設は、風水では、艮(東北)、申(西南)、巽(東南)の方位に建てることを良いとしているが、平遥では文廟、文昌閣、魁星楼のいずれもが東南に建てられている。

こうして、重要な施設は陰陽や礼制にもとづいて、南大街を軸に左右対称に配置されたようだが、地形図を作ってこれらの施設配置を見てみると、それぞれ、地勢のすぐれた場所に立地していることがわかる。平遥は、全体に東南が高く、西北が低くなっている。その城内で最も高い台地上に突き出す形で南大街が位置している。そして、都市のランドマークである市楼は、この台地のエッジに建っている。そして、左右対照に並ぶ施設もその序列に応じるように地形の高低を考慮して配置されている。県衙は、台地の山の手に当たる場所を占め、文廟は、城内最高所にあたる東南角に立地する。これらは、それぞれ左右一対である序列下位にあたる城隍廟と武廟より、地形も相対的に高くなるように立地選択されている。

 

◎伝説が語る都市◎

 

平遥には老人が多い。そう思うのは日中みなが働いている時間に住宅の調査と称してうろうろする私の相手をしてくれるのは、老人ばかりだったからかもしれない。もちろん、住宅の実測をしながら家族構成や住まいかたを聞くのがメインだったが、ときにはお茶をのみながら彼らの昔話を聞かせてもらうこともあった。そんな話の中に、本には書かれていない平遥の都市形成の物語りがいくつかあった。

亀城の由来…平遥は、別名亀城と呼ばれている。その由来を語る伝説のひとつに、都市の立地選択を亀に託したというものがある。

「夏朝の大王、禹王が洪水を征服した後、我々の祖先がこの地に城を築こうとしたところ、河(中都河)から一匹の亀が出てきた。この亀が止まった場所が、最も良い場所である考え、そのあとを追うと、亀は地形の最も高いところに頭を南へ向けて止まった。この場所に市楼を築き、市楼を中心として都市を建設した。」

なにしろ伝説だから、平遥県がこの場所に存在するはずのない、伝説上の王朝が出てくるなど、時系列はあいまいだ。しかし、この内容には、古米から伝わる立地選択の方法が三つ暗示されている。一つめに、殷代より王がさまざまなことを占ったとされる甲骨文には亀が使われていこと。二つめに、地形の読み込みである。全体に東南が高く、西北が低い平遥の中で、南大街を中心とした台地が北へ突き出すような形になっており、その突端に市楼が位置していることを示唆している。三つめは、方位の重視である。亀が高を向いたというのが指南針のたとえにとらえられはしないだろうか。

そして、街路計画について「城内の九街道、一八巷は、亀の甲の模様をもとに配置した」といわれているが、南大街を背骨として、亀の背のように緩やかな丘状の城内全体に道路を配置していったというふうに読みとれる。また、正方形に近い街区で構成される平遥の街区構成をその模様に見立てたのだろう。

さらに、「平遥という亀は、頭を南、尾を北に向けている。平遥城の北の南政村は野菜の産地である。だから城内の糞尿、すなわち亀の糞は、北門から出て南政村へ送られる」という話もしばしば耳にした。

都市建設の手法をたとえる象徴に使われた亀は、平遥という都市そのものになって擬人化ならぬ擬亀化までされて独り歩きしている。

名所づくりの記憶を年える賀欄橋…南大街の一本東に走る賀欄橋街という道路がある。

 

 

 

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