あぜ道のような滑走路から飛び立つと、眼下に広がる城壁で周囲の農地から切りとられた甍の波に目を奪われる。住宅の灰色の屋根の中で、ひときわ目立つ大きな緑色の瑠璃瓦の屋根は、寺廟や役所などの施設である[(10)]。
城の中心からやや東南にずれた場所に市楼と呼ばれる楼閣が、南大街という最も華やかな商業軸をまたぐように建っている。現在は、道路の舗装などでやや低くなっているが、もともとの高さは約二五メートル、城内で最も高い建物であり、百尺楼ともよばれていた。今も昔も都市の中心のランドマークである[(11)]。
そして、南大街は、さまざまな意味で都市の中心軸となっている。平遥の商業軸は、南北に走る商大街と直行する二本の東西方向の街路からなっており、干宇街とも呼ばれている。これらの道は商業の中心でもあるし、春節の農歴正月一五日には、秧歌隊が練り歩くルートになって見物客でごったがえす。とくに、日が暮れてからは、南大街の店の軒先に数えきれないほどの提灯がさがる[(12)]。また、葬式行列も好んでこの賑やかな通りをルートに組み込むのである。
南大街は、寺廟や役所といった施設を配置するときにも中心軸の役割をはたしたようだ[(13)(14)(15)(16)(17)(18)]。南大街と直行して下西門と下東門をつなぐ西大街と東大街には、それぞれ仏寺と道観が左右対称に置かれている。西の集福寺はすぞに失われているが、清虚観は博物館となって残っている。
やはり南大街をはさんで西と東に配置されている県衙と城隍廟もまた一対のものである。県衙を現世の役所とするならば、城隍廟は、あの世の役所である。城隍とは、都市を護る神であれば、県衙は陽、城隍廟は陰である。