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この付近は、周囲より地形が低いため、少しの雨で通行不能になるほど排水の便の悪いところになっている。ところが、かつては平遥裡八景といわれる名所のひとつ、賀欄橋のかかる池だったそうである。賀欄橋は、『平遥県誌』によれば、「賀欄仙子という仙人が通ったことがある」ことからこの名がついたのだという。

「昔、賀欄橋の一帯は平遥城内で最も地勢の低い場所のひとつであった。周囲の住宅の汚水や汚物まで流れこむ、平遥城で最もいやがられる場所だったのである。この汚水池の真ん中に通行のために南北方向の道をつけた。しかし、道はいつも汚水でぬかるんでいた。ある日、賀欄仙子の神仙女道士が平遥へ来た。賀欄仙子は一人の青年に化身し、清虚仙跡におちついた。彼は、平遥城の設計を大変ほめた。観主が平遥の欠点である汚水地のことを話すと、賀欄仙子はそこを見に行って、この場所を風水宝地であるといった。観主が驚くと、賀欄仙子はこういった。この池の北側は、地形からみると一羽の鳳凰である。鳳凰は、池の水も飲めるし、米糧市の米も食べられる。これが風水宝地でなくてなんなのだ。賀欄仙子が道の真ん中に歩み寄ってハンカチを落とすと青年からおばあさんに変身して雲のごとく消えてしまった。残された観主が下をみると、石橋ができており、両側を流れる水は陽光を受けて金色に光っていた。その上、金のトノサマガエルが蓮の花の間から顔をのぞかせ美しい声で鳴いていた。」

この伝説から、橋のできる前は、ドブ池がその場所にあったこと、橋がかけられて、蓮の花の咲くような池にかわったことがわかる。こうした素晴らしい土木工事や技術者を仙人にたとえて語り伝えたのだろう。この池も、付近の老人によれば、彼が子供の頃には異臭を放つドブのような状態になっていたという。

 

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賀欄端「平遥県誌」(光緒八年・1882)より

 

また、池の北側の地形を一羽の鳳凰であるとしたことを地形図で見ると、南大街を中心とした台地がちょうど市楼の北側を頭に、西の県衙と東の文廟を両翼とした鳳凰に見えてくる。平遥は、全体の骨格を亀に見たて、台地の部分に鳳凰を住まわせた都市だったのである。四神の北に相当するのが玄武という亀に似た動物で、南に相当するのが鳳凰であるのはよく知られているが、その二つが重なり合って向かい合うとは、設計者は、地形を読みながら、様々な意味を込めて設計した様子がうかがえる。無論、設計当時の文献がないのでことの真偽は確かめられない。ここで重要なのは、こうした吉祥伝説をまとった都市に住むことを誇りに思いながら、住民が伝説として語り継いだことにあるのだ。[(19)]

 

◎都市の現在◎

 

明清の華やかな時代を経た平遥も、新中国設立後は、他の地方都市と同様に経済的な停滞をつづけた。七〇年代まで庶民の主な交通・運輸手段が馬車だったほどである。この時期、新たな建設活動もほとんどおこなわれることはなかった。そのおかげで、城壁をふくめた建築物が現在まで残ることになったのである。そして、改革開放以降、中国文化みなおしの気運にのって、ふたたび、このまちは、脚光をあびることになった。一九八六年の第二次歴史文化名城への指定、その後の保護政策がこうをそうして一九九七年にはユネスコ世界遺産として、中国のみならず、世界にその価値がみとめられた。

 

 

 

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