太刀と鈴を持っての二人舞い「一神楽」(嶽之枝尾神楽十番・撮影同上)
NHKではシンポジウムに参加した小島、泉、牧田の三人による座談会特集「椎葉を語る」を二十一日午後八時から総合テレビで放送した。
ところで、私が椎葉村を訪れたのはこれが最初であった。その時のことだが、国道二六五号線で、約一メートルほどの「落水の滝」があるのを見つけ出した。古くはこの滝から正月の若水を汲んでいたというのだ。これが「おちみず」といわれたのなら、まさに萬葉集の「をちみず」月よみの持てるをち水 い取り来て 君にまつりて をちえて しかも」(巻一三・三二四五)などの「おち水」ではないかと考えることができる。そのことを懇談会の席でのべたところ、川内川の上流、熊本県境の元八ヶ峰分校横にも「落水の滝」のあったことを来客の屋敷繁氏が指摘していた。果して「落水の滝」が古い仮名遣いで「をち水」といえるかどうか。
そこで思い出すのは柳田國男は昭和二十四年一月二十八日の御進講に際して「富士と筑波」と題し、常陸風土記の一節についてお話申しあげていることだ。これも旅のまれびとが富士山では新嘗だからと宿をことわられ、筑波山では「其筑波岳 往集歌舞飲喫 至于今不絶也」という話であった。
遠い椎葉では旅のまれびとが宿をいったん断わられ、後に許されて一夜泊ることができた話が神楽になっているのを思い出しながらわたしはなぜかこの「富士と筑波」の話を思い出さずにはおられなかった。
この御進講は全文が『定本柳田國男集』に出ているが、そのなかにたった一言椎葉のことが語られている。「九州南方の稚葉と申すひどい山村」というのである。ひどい山村という言葉には、柳田が若い日にこの村を訪れた時の印象がよく写されているのではあるまいか。
椎葉へ行くにはそのころと間じ道をたどらねばならないのである。椎葉は今も遠い。
<民俗学>