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椎葉の思い出 牧田茂

 

九州脊梁山地――地理学者の命名であろうが、実にむつかしく言ったものである。

われわれ民俗学をくむものとしては、柳田國男が三十四才のときに訪れた椎葉村であり、村長中瀬淳(すなお)とともに幾夜かを語り明かした耳川のほとりだ。今でも宮崎市から車で三時間半、日向市からでも二時間の山の中にある。とにかく遠いのだ。

東京からいえば、岩手県の遠野市も遠いところだが、それでもこちらは早くから汽車も通っているし、今では、駅がホテルになったりして、ずいぶん開けたのとはまるで違う。「庭のさんしょの木に鳴る鈴かけて」のひえつき節を思い出すたびに、そこは遠いという感じがする。平家の落人の子孫鶴富姫と、平家の残党討伐にきた那須大八郎完久との悲恋を伝えた里でもある。

柳田が椎葉を訪れた時、百瀬村長らは村の幹部をひきつれて、中山峠で出迎えたそうだが、法制局参事官の柳田は紋付で、仙台平の袴姿だったのに驚いたそうである。これは昭和十五年に百瀬を訪れた宮本常一が聞いている。

柳田はその時の旅費の残りで『後狩詞記(のちのかりことばのき)』五十部を刊行して友人などに配ったが、この本の副題ととて「日向の国奈須の山村に於て今も行はる」猪狩の故実」と書かれている。椎葉は今も土地の人々によって奈須と呼ばれている。

柳田が昭和二十七年、七十七才の喜寿を迎えた時、折口信夫らの弟子たちがこの書物を復元して、柳田の年譜や著作目録ともに記念出版している。鈴木棠三の労作である。

その後も椎葉については楢木範行さんの紀行が「旅と伝説」六ノ八に出ているし、野間吉夫氏の「椎葉の山民」も単行本で出ている。

椎葉の村にも「椎葉民俗芸能博物館」ができている。「山人の芸能」という企画が今年の夏には行われている。八月一日に開かれたようである。

そのシンポジウムは司会が同館の主任学芸員永松敦氏で、パネリストには早大の演劇博物館学芸員渡辺伸夫氏が「山人と杖」昭和女子大教授後藤淑氏が「山の神と鬼神面」国立歴史民俗博名誉教授小島美子氏の「季節の歌と椎葉」西南大教授の高倉洋彰氏の「焼畑とヒエ」とそれぞれ専門の分野を担当している。

更に渡辺伸夫氏の解説で諸塚神楽の「舞入れ」椎葉村栗の尾神楽の「舞入れ」同嶽之枝尾神楽の「宿借り」が公演されている。

実は椎葉の神楽は前にも東京で公演されたことがある。昭和五十八年に早稲田大学の演劇博物館であった。十一月の早稲田祭の時である。

この「宿借り」には破れ笠をかむって蓑を着、腰に刀をさした旅人が「御宿申し候」と一夜の宿を乞うて訪れてくる。

太鼓に腰をかけた主人は「御宿なるまじく候」と応待するのである。

初めは宿をことわっていた主人もいろいろと問答の末、結局は宿を貸すのだが、この主人が旅人のことを「山びと」とよんでいる。

こんどの公演でも東北地方の「ナマハゲ」大分県の「やまど」(山人)宮崎県の「メゴスリ」沖縄石垣島の「マユンガナシ」なども展示するということであった。いうまでもなく、折口信夫の「まれびと」である。

ところで昭和六十年(一九八五)には宮崎日日新聞社が自社の創刊四十五周年を記念して「民俗の原点・椎葉シンポジウム-展開する柳田國男の世界」を八月三、四両日にわたって行なっている。県教委などの後援もあったが主催したのは同新聞社と椎葉村であった。

そのころは日本民俗学会評議員だったのでわたしも招かれたらしい。テーマは「柳田國男と椎葉」である。やはり民俗学会評議員の石川淳一氏が「椎葉における狩猟伝承」民俗芸能学会代表理事の本田安次氏が「椎葉神楽」国立歴史民俗博物館教授の小島美子氏が「民俗音楽の原点・椎葉」という顔ぶれだった。

 

 

 

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