孤独な巨人、朝倉無声
残念なことに、外骨の『此花』は、明治四十五年七月の「凋落号」をもって終刊となる。しかしここに、誌名を受け継ぎ、東京で新たに出版する者が現れた。その名は朝倉亀三、号して無声。いうまでもなく、名著『見世物研究』の著者、朝倉無声(明冶十年生‐昭和二年没)その人である。無声の『此花』は、同じ年、大正と改元後の十月に創刊された。発行元は東京の此花社(千駄木町・無声宅)である。
無声の誌名継承はむろん外骨の許諾が前提であり、無声が旧版『此花』の常連寄稿者であったことや、外骨の雅俗文庫の熱心な支持者たる「紙魚の友」資格者五十九人中の一人であったことなどを考慮すると、両者のあいだには確実に、互いに互いを認めあう気持ちがあったものと思われる。また、のちに二人が東京で、上野桜木町十七番の同番地に住んだことも注目される。ともに個性が強く、方法論も異なる二人のあいだに、どのような交流があったのか興味深いが、端的にいうと、互いの学識へ一目置き合う状態から、最後は絶交へと推移したことが知られる。しかし、ともあれ二つの『此花』を通じて、見世物研究の系譜は形式上継承されたことになろうか。
さて、大正初め頃に、江戸風俗全般に関して無声が多大な知識を持つことは、同好者の間でよく知られており、東京版『此花』は研究の格好の発表場所となった。この雑誌は、大正三年十一月からは誌名を『風俗図説』と改題し、さらに大正五年六月まで刊行される。これらで無声が執筆した中心的分野の一つが、いつまでもなく見世物であった。
無声の著書『見世物研究』(春陽堂)は、江戸時代の見世物に関する結合研究書としては、今日にいたるまで最良の書であり、筆者自身、そこから得た恩恵は測りしれない。しかし、忘れてならないのは、同書の出版は昭和三年(一九二八)と、無声の死後に行われたことである。没後出版となったために、いくつか遺漏が生じたことは、すでに故・守屋毅氏によって指摘されており、守屋氏自身はその遺漏を補足した、復刻版『見世物研究』(思文閣出版、一九七七、序文・郡司正勝)を出版している。その点でいえば、むしろ大正前期の『此花』および『風俗図説』の時代こそ、自己が主宰する雑誌で研究の蓄積を公にしつつ、現在進行形でさらに研鑽を重ねるといった、最も充実した時代だったのではないかと思えてくる。
実際、『此花』や『風俗図説』の無声執筆記事には、『見世物研究』に未載の記事が多く、また同趣の記事でも内容がより詳しい場合もある。そのため筆者は、『見世物研究』には補巻が必要と感じ、これら雑誌記事を中心に、自らの編・解説で『見世物研究 姉妹篇』(平凡社一九九二 序文・延広真冶)を刊行することとなった。詳細については、同書解説をお読みいただきたいが、『見世物研究』『見世物研究 姉妹篇』の二冊を合わせることで、無声の見世物・大道芸についての研究がよりよく把握できることは、はっきりといえるところである。
いうまでもなく、これは無声自身の責任ではない。要は、早逝したがために、もっと大きな仕事をしていたはずが、わずかに『見世物研究』だけが公刊されるに止まったのである。にもかかわらず、無声はその一書のみで、他に比肩するもののない巨峰となり、後世には、『見世物研究』に頼るばかりの論文・エッセイ・著作も数多く現れている。しかし、すでに七十年を経たいま、無声本来の壮大な構想をひろく再現しつつ、ある部分は批判的に読み込んでいく努力も必要と、筆者は感じている。それが本当の意味で、無声の遺志を継ぐことにもなろう。
例えば、無声には『見世物年代記』の仕事がある。これは、無声の見世物研究全体の「元帳」といえるもので、年代順に文芸・随筆・記録類の見世物関係記事を抜き書きし、若干の絵画資料を貼り込んだ手稿本である。いわば伊原青々園『歌舞伎年表』の見世物版とでもいったらよかろうか。ところが、『見世物年代記』は、東京版『此花』に一部が活字化された以外には日の目を見ることがなく、全十六巻(または十七巻)と推測される完全稿本は行方知れずとなっている。しかし、副本と思われる十四巻本が、東洋文庫に収蔵されており、筆者もこれを閲覧することで、解決できた疑問点は多い。この十四巻本だけでも公刊できぬものかとの思いは、年々強まっている。
無声はまた「見世物絵」の大収集家でもあった。彼のコレクションは、多くは貼り込み画帖のかたちでまとめられており、そのー定部分は、現在、東洋文庫、西尾市立図書館、大阪市立博物館の三つの機関と、ある老舗浮世絵商の所蔵となっている。