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曲馬に奇術や畸型の見世物、それに滑稽芸などをアストレイはくわえて、複合的なエンターテインメントを展開していった。テレビもラジオもなく今のような輸送の手段もない時代、せいぜい旅芸人のささやかな見世物芸を楽しんでいたこのころ、アストレイのやったことは並外れて大きなスケールの興行であった。アストレイは、ロンドンでの大成功をそのままパリにもっていく。ここにアクロバット芸を主体とした巨大なエンターテインメントが、集団で移動して興行するという近代サーカスが誕生する。

 

◎見世物から「地上最大のショウ」へ◎

 

海峡をこえたアメリ力に、後にも先にも前代未聞の巨大なサーカスが出現したのは、約一〇〇年後である。P・T・バーナムは、シャム双生児や小人の見世物をやって興業師として成功をおさめていたが、そのような畸形見世物に移動動物園、曲馬ショーなどを統合し、一八七一年に大サーカス団をつくった。後にバーナムは、もうひとりのサーカスの敏腕興業師ベイリーと組んでバーナム・アンド・ベイリー・サーカスとする。バーナムとベイリーが亡くなった後、このサーカスはリングリング兄弟のサーカスに買収され、バーナム・アンド・ベイリー&リングリング・ブラザーズ・サーカスという、名実ともに地上最大のサーカス団が生まれる。このサーカス団を中心に、一八八〇年代から一九三〇年代ごろまでは、アメリカのサーカスの黄金時代であった。

セシル・B・デミル監督の映画『地上最大のショウ』(一九五二年)は、ストーリーは他愛のないメロドラマだが、この巨大なサーカス団を撮りたくてしょうがなかった監督が撮っただけあり、劇映画であっても当時の公演の光景、野外パレードや団員の生活の様子が随所に挿入されている。わたしは、途方もなく大きなテントのしたに、五つものリングをしつらえたこのサーカス団の公演を見たことがあるが、一番端のリングのそばに座ると、他方の端のリングは、かすんで見えるほど巨大な空間である。公演は五つのリングで同時進行する。ここまで大きくする必要があるのかと思うほどの大きさ。「地上最大のショウ」は、このサーカス団の謳い文句である。このキャッチフレーズに嘘偽りなく、リングリング・ブラザーズ・サーカスは、それを体現している。まさに「大きいことはいいことだ」のアメリカの夢そのものなのだ。

「リングリング」は例外のスケールとしても、動物や人間をふくめた巨大な集団移動を誇っていたサーカスが、今世紀後半にじょじょにその数を減らしていったのは周知のとおりである。理由は映画・テレビなどの映像文化の飛躍的な拡大、(国内/外旅行をふくめて)娯楽産業の多様化と膨脹、高度情報化社会への変貌……等々、さまざまある。わが国にはそれらに伝統的な興行のしきたり、芸人の社会的な地位や育成についての因習的な風土なども加わってくるだろう。近代サーカスの歴史はすでに二百二、三十年の蓄積がある。が、最近の数十年の社会の変貌は目覚ましく、その変貌にサーカスがついてゆけなかった-というよりも、サーカスという「制度」がそのような変貌に次第にとりのこされたともいえるだろう。

しかし、欧米においては、わが国で想像するほどにはサーカスが衰退していないというのも、また事実である。フリークショーなどの見世物小屋の数は極端に減ったし、サーカス団の数も減ってはいるが、しっかりとした組織力・ショービジネス精神とサーカス・アーティストとしての気概をもったいくつかのサーカス団は、しっかりと持続している。その根は深くつよく、ちょっとやそっとでは衰弱することはない。それには、なんといってもまわりの人々の積極的なサポートがある。一般の市民がサーカスを身近に感じ、家族や友人や恋人同士が連れだってサーカス見物にゆくという伝説が(少なくともわが国よりは)生きている。これは、サーカス団が生き延びてゆくうえでなくてはならぬことである。わが国の状況に照らしあわせると、こういう雰囲気はうらやましい。欧米では、国際的なサーカス・フェステイバルも定期的に開催されるし、クラウン芸などの大会などもある。中国でも、国際的な雑技大会が開催され、中国はもちろん、世界中からサーカス芸人が集まる(高度の身体技術の伝統をもつ中国雑技の現状に関しては、欧米のサーカスとはまた異なる次元で論じられるべきなので、ここでは扱わない)。中国の人たちは、雑技を自国の誇るべき身体文化の枠として大切にしている。

 

 

 

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