鼎談………山口昌男・木下直之・坂入尚文
見世物の仮設性
◎人はなぜ曲芸や珍奇なるものの姿を見たがるのか◎
山口……木下さんは五年前に平凡社から『美術としての見世物』を出していまして、今日はその意図、見世物とは何かを聞き出してみたい。私は専ら贋物ということに興味を持っている者でして、見世物と贋物の間になにか相通じていくものを感じるのです。木下さんはなぜ見世物に注目したのですか。
木下……見世物の世界は、思っていた以上に広大で、正面から取り組むことは大変なことだと考えています。われわれが知っている見世物の世界、というよりも「見世物」という言葉を耳にして思い浮かべるものは、おそらく、見世物のほんの一部にすぎない。
「親の因果が子に報い」の口上で始まるようなグロテスクでいかがわしいものしか思い浮かばないとすれば、それは、近代の日本社会が見世物をそういう場所に押し込んできたからです。曲芸はスポーツやサーカスに、珍奇なるものを見せる見世物は博物館や美術館に回収され、見世物の世界がやせ細ってしまったことは間違いなのですが、これをもって見世物のすべてだと考えてはいけない。もっと広大で豊かな世界があったはずです。
人はなぜ曲芸や珍奇なるものの姿を見たがるのか?おそらく、これは永遠に解けない謎であるとともに、人間というものを考える鍵であり続けるだろうと思います。
ところで、最近の新聞では、それぞれの表現規準に従って「見世物」と書かずに「見せ物」と書きます。つまらないことかもしれないが、見世物が人間とその社会を解き明かす手掛りだと考える私には、この「世」という文字は捨て難い。見世は店であり、役者の顔見世、遊女の張り見(今はスポーツ新聞や電話ボックスの中にある)に通じる言葉ではないですか。世の中で人やものがどのように見せられ眺められているか、それを追いかけてみたいと思っています。
山口……最近私は、文化の常設性と仮設性を問題の焦点にして論ずることが多いのですが、新聞が読む見世物です。明治時代にできた新聞は、誰かが読んで聞かせたわけでしょ。一過性の仮設性に基づいている。新聞のあらゆるものが見世物的性格に一回還元できる。朝野新聞が残虐性の高いけばけばしい版画で売ったことにそれは現われているでしょう。