同時代フランスの"ル・プティ・ジャーナル"という週刊新聞が同じような傾向を持っていました。安普請なら安普請的傾向が続いている美術だって、仮設が主な潮流になる可能性だってありえます。
フェリーニの『道化師』では、夜中、目が覚めたらサーカス小屋が立ち上がっている。そして朝になるとさっと消える。この仮設性は、表参道にあった美術館(東高)を思わせます。美術館の仮設性の面白い部分とはかなさを同時に味わせてくれた。美術というのは永遠なものを作る仕掛けみたいなものだけど、実ははかなさにおいては変わりがない。
木下……見世物はそういう力を持っていますね。世の中に確固たる地位を占めていると信じられているもの、美術館にせよ、学校にせよ、国会にせよ、新聞にせよ、すべては幻だといったん還元して見せる。
坂入……私は業界の人間ですが、仮設で一つおもしろいと思っていることがあります。祭りの最後の翌日は休みですが、仮設の人々は夜中中かけてばらし、跡を去るのです。翌日片付ければいいと思うのですが、一刻も早くその町を出て行くのですね。不思議です。町の人が朝来てもゴミが残っているだけです。
山口……江戸時代、そういうものはいくらでもあったのに、みんな明治以後、立派な美術館や大学という箱に納まろうとして、仮設的なものは失ってしまった。本来、日本の祭りや歌舞伎は仮設です。だから一度、仮設の次元に帰って考える必要があるのです。