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私は本当は六代目なんです。ところが私は披露もなにもしていません。新橋、虎ノ門は松坂屋の区域だったのですが、戦後事件が起きて、松坂屋は解散になってしまいましたが、その区域を守るため、四代目(鈴木孝四郎)が若い香具師を数人引き連れて松坂屋を再興させたのです。しかし興行のことは何もわかる人がいなかったので、私がいた寄居一家の親分と四代目との話し合いで私が松坂屋へ入ることになったのです。寄居一家は大きいが、せいぜい番頭りだ、今は小さいが困っている松坂屋へ行きなさいと進めてくれたのが私のオヤジ(西村宗吉)です。五代目が亡くなって、あとを継げと言われたのですが、断りました。それで、五代目代行として務めていますと、その内、五代目というようになってしまいました。

 

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西村さんが大事に保管している浪曲師だった父親の身分証明書

 

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東京新興移動劇団に入団した頃の西村さん(十歳頃)

 

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二十三歳頃の西村さん

 

私のオヤジである西村宗吉は、福島県相馬の造り酒屋の倅でした。本当は松本宗吉といいましたが、子供がいない西村という畳屋さんへ養子にいったのです。養子の先で、岩倉高等学校へ行かせてもらったんです。オヤジの下宿先の下の階に刺青師がいたんです。そこで誘われ刺青を入れてしまったんです。そのまま学校へ通っていました。ちょうど二年生の秋体育の授業で、鉄棒から落ちて、医務室に運ばれ、手当てするのに裸になり刺青がばれて退学になってしまいました。養子だから実家に帰るにも帰れず、刺青師に相談したら、それこそもうヤクザになったらと勧められたそうです。しかし養子先に悪いと留まり、結局、源清田系吉原一家の吉原賀東次のところへ送り込まれたのです。ところがいつのまにか跡目を継いだ大崎仁三郎さんの妹さんと仲良くなり結婚しちゃった。それで実家に帰った。相馬に興行がくると、オヤジの家にはそういう関係者が出入りするようになり、実家はおかしいと思うようになる。そこで調べてみると、刺青はある。ヤクザになっているということで、勘当ではないのだけど、どうせなるなら興行界の親方になれ、東京で所帯を持てということで送り出したんでしょう。

 

 

 

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