西村宗吉は東京小松川で相当な親方になりましたが、戦争が始まり激しくなると食えなくなる。地方へ巡業するに当たり、東京振興移動演劇団を設立するのです。そうすると米の配給が受けやすくなる。そんな頃に十歳になった私が養子に貰われたのです。昭和十八年、千葉県茂原というところです。東京振興移動演劇団はサーカスだったので、人手は要りますからね。もともと私は、新谷淳という名前でした。私の本当の父親は、奈良出身の新谷義昭といい、浪曲師だった。旅芸人でした。その息子ですから太鼓はうまいものでした。移動学校は、行け行けと言われていたのですが、いやでいやでサボっては土手で寝転がっていました。先生だって、私が一週間もすればまた他のところへ行ってしまうのだから何も言いません。だから学校という名のつく所は、一年しか行きませんでした。しかし私は誰も怨んでいません。西村の家に養子に行ったのは、実のオヤジもやはり戦争で食えなくなったからなんです。呼び込みは十六歳から始めました。昔から客扱いがうまかったのでしょう。それで私は、西村宗吉さんに本当にかわいがってもらいました。十六、七歳になると、養子として籍に入れてくれました。