しかし、絵看板も作らずに、演し物は丸っきり他人のマネ、木戸も素人では長くは続かない。天道様に左右される商売で芸人に決まった賃金を払うのは容易ではなく、身内で固まったところ以外、淘汰されることになる。
ひとつの興行場所に見世物小屋が何軒も建ち並べば、客の奪い合いである。「ハイ、今ならダダで入れます」と客を放り込んでおいて「タダなのは入るとき、出るときにはお代をいただきます」としっかり見料をふんだくるやり方や、「十円の入館料が何と特別割引一円です、お客さん」といかにも一円で見れように招き入れ、「一円は割引く額で、お代は九円となりますよ」と素知らぬ顔をするやり方など、時には荒っぽい方法で稼ぎを上げようとする小屋もあったようだ。
もっとも、さくらを使った単純なインチキ賭博で、腕時計、靴、上着まで文字通り身ぐるみ剥いでいた香具師(やし)の連中に比べれば、「ズラトン」できない見世物は、おとなしいものだったのだろう。
◎夫婦コンビの興行−予期せぬ終幕◎
森金興行は、「密林の女豹」(昭和二十五年公開)という大映の映画をヒントに「女ターザン」なる演し物を始めている。「密林の女豹」では見世物の女芸人が主演女優・荒川さつきのスタントに駆り出されたが、蔦のロープにつかまり木から木へと飛び移るシーンでは、鬘(かつら)をつけた若い衆がクリカラ紋々を隠して代役をつとめたのだとか。
多田さんは、森金興行で「女ターザン」を演じていたトシコさんと所帯を持つ。「女ターザン」といってもやることは蛇女とさして変わりはなく、後に「吸血女」とも名を変えている。
トシコさんは森金興行が豊橋で興行していたとき、そのまま一行についてきてしまったのだそうだ。まだ十代の未成年だったので、親の承諾を得て、見世物の太夫(たゆう)(芸人)になった。この頃は、ひと声掛ければ小屋の舞台に上がる若い娘はワンサカいたが、大抵は数日で逃げ出して行ったようである。
昭和三十年代半ばに入り、森金興行の親方は射的などの身軽な遊技に鞍替えし、多田さんはトシコさんと夫婦コンビで見世物興行を任され、一本立ちする。旅暮らしの中で二人は娘ひとり、息子ひとりをもうけた。
「この商売、馬鹿じゃできない、利口じゃできない」というのが見世物師たちの口癖である。「飲む、打つ、買う」の三拍子は、彼らが馬鹿になったり利口になったりするための嗜(たしな)みであった。時として彼らの暮らしぶりは、ひどく気まぐれでルーズなものに思えるのだが、日々を「いい加減」のリズムで過ごすのは、移動の多い不規則なお天気商売でメシを喰う彼らの生活の知恵なのだ。
多田さんの場合、いささか、嗜みが度を超していた。生活費にも事欠く女遊びに愛想を尽かしたトシコさんは、幼い子供を残したまま、下働きの若い男と出て行ってしまったのだ。
口の悪い多田さんだったが、トシコさんのことを悪く言うのを聞いたことは一度もない。「あの頃のオレはムチャクチャやっとった」と観念していた。ただ、多田さんが語るトシコさんは「両方の鼻の穴にマキ(蛇)を通せる」タイした太夫さんであり、「パサバラシ(鶏を食いちぎる芸)のときも血をたっぷり出して口の中に入れ、飲み干すようにみせて、その度毎に舞台の袖で歯を磨いていた」りっぱな太夫さんであり、いつも見世物の舞台に立つ「日本一の太夫」としての連れ合いの姿なのであった。
トシコさんが戻ってくることはなかった。多田さんは木戸打ちの最中、人混みの中にトシコさんの顔を見かけたことが数回あったという。