多田さんも見世物興行で一番重要な仕事とされる木戸のベシャリをものにする。「これしかないと思って一生懸命に覚えた」多田さんの呼び込み口上は、仲間内をも唸らせるものだった。手の悪い見世物芸人が「喰っていくため」に必死になって足芸を身につけたのと全く同じように、多田さんも呼び込みのタンカを全身に叩き込んだのだ。
◎戦後「闇鍋」期の見世物◎
森金興行の見世物の演し物(だしもの)は、猿犬サーカスに蛇女。蛇女は鼻から口へと蛇を通したり、ニシキ大蛇を身体に巻きつけたり、蝋(ろう)を口の中に垂らして火を吹き上げたり、現在でもおなじみのものだが、先代から続く猿犬サーカスの芸は素晴らしいものだったと当時を知る興行関係者は口を揃える。輪とびでは犬の上に猿が跨っていたし、玉乗りでも玉の中に一匹入り込んだうえ、後ろには転がし役が付いていた。「段モノ」と呼ばれる猿芝居では、「肉弾三勇士」が大人気。衣装を着た猿が竹の鉄砲をかついで奮戦し、哀れ、敵方の銃弾にバッタリ倒れる場面には詰めかけた兵隊さんも喝采を送ったという。先代の犬のサーカスでは、和服姿の踊りや空中ブランコなどもやっていたらしい。
また、舞台には瓶詰めの標本も並べられていた。興行師のもとに出入りしていた「極道医者」が大学病院から持ち出した代物で、一ツ目や目無しの奇型胎児がホルマリンに漬かっていた。小屋に入ったお巡りさんが瓶詰めの中身をしげしげと眺める姿をみつけ、「見てのとおり、作りもんです」と耳打ちしたそうだが、もちろん本物であった。常観寺の境内に埋められているのは、これである。
復員後、継ぐつもりのなかった親の稼業に舞い戻るなど、多田さんと同じように敗戦後の混乱期に見世物興行界へ入った人は少なくない。そんななか、大の人気を博した見世物が、南方戦線からの帰還兵に生まれた「獣人娘」なる演し物(ジャングルに追われて獣と交わってしまったとき、体内に入り込んだ獣毒が原因でと…)だったとは、何ともせつない話である。「獣人娘」に対抗して多田さんが考えたタンカは「人間獣児」。三角寛という作家の書いた小説の題名から取ったもので、浅草の飲み屋で煮込みをつつきながら、三角本人に使用許可を得たという。
ちなみに木戸番に立ったほとんどの見世物師が自分の喋るタンカは自分が考え出したオリジナルなものであると思っており、またその一方で他の木戸番が喋るタンカは「アレは俺が教えてやったもの」とか「あのタンカは誰々さんのマネ」と思っている。これは、まあ、どちらも正しいと言えるのである。教科書など存在しない呼び込みの口上は、耳で覚えて先輩からまず盗むものであり、それを自己流にアレンジしてコマすものなのだから。
戦後ニッポンの昭和二十年代は、ドサクサにまぎれて日銭を稼ごうという輩もいて、見世物小屋は多いときで四十〜五十軒を数えていたとする人もある。