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常観寺の境内には、多田さんが永年、見世物小屋で使っていた奇型胎児のホルマリン漬けが、供養を受け埋められている。そして二年前に他界した多田興行の見世物芸人、牛娘のナミちゃんの骨壷も、引き取り手がないまま、この寺に安置されている。

多田さんの亡骸は真夏の葬儀のあと、荼毘(だび)に付され、生まれ故郷である三重県上野市の墓に納められた。これで平成ニッポンに残る見世物小屋は、三軒から二軒に減ることとなる。

多田さんは、この半世紀というもの、見世物小屋に揺らめく裸電球のもと、呼び込みの口上に喉を嗄(か)らしてきた。北は北海道・網走から南は鹿児島・天文館まで、沖縄を含めたほんの数県を除いて、全国津々浦々を巡り歩き、訪れた興行場所はおそらく優に二百カ所を越えている。多田さんの口上を耳にして好奇の情を駆り立てられた人々は、延べにして数百万人にのぼるだろう。

しかしもう、年代物の拡声器から響き渡る多田さんのヒズんだ名調子を聞くことはできないのだ。

 

◎空き腹に染みた見世物口上◎

 

米屋の三男坊として生まれた多田さんが、見世物興行の世界に身を投じたのは、終戦直後のことである。米屋といっても十数代続いた地元の名家であり、麦を精白する工場も保有していたらしい。多田さんは、わずか四歳で母と死に別れ、十歳のときには上の兄が戦死している。

学徒出陣で旧制中学から軍需工場に徴用されていた多田さんは、どうやらそこを抜け出してしまったらしく、終戦時は大阪の釜ヶ崎にいたという。その後も勘当の身で故郷には帰らず、焼け残った都会で生きていく道を選んだ。実家は食糧統制下、機械類を全て国に買い上げられて経営はままならず、多田さんの父も昭和二十二年に世を去って、再び老舗の看板を掲げることはなかったようだ。

多田さんは、大阪の千日前に建つ森金興行の見世物小屋に貼られた一枚の求人ビラに目を止めた。そして「他に喰いぶちの当てもなく、仕方なく入った」見世物興行の世界で、以降の半生丸ごとを過ごすことになる。

実は多田さんは、森金興行の前に別の見世物小屋が千日前での戦後初めてとなる興行を打っていたとき、しばしば、そこに出入りしていたらしい。「我が青春のルンペン生活」を送っていた多田さんは、他にやることもなかったのだろうが、ドヤ街から毎日のように小屋に通ってきては、呼び込みの口上に聞き惚れていたという。このとき、木戸に立っていたのはアオキという人物で、今に残るマキツギ(蛇遣い)のタンカ(口上)の原型は、この人にありと言われるほど、ベシャリの達者な男だった。

開けっ広げな見世物師たちに、一飯の思恵に浴したこともあった多田さんは、見世物を悪くない「喰いぶち」として意識したに違いない。数カ月後にやって来た見世物小屋の貼り紙が、それを現実にした。

敗戦後のニッポンで、見世物は最も早く人々に娯楽の場を提供した興行のひとつだったろう。サーカスほど熟練者を集める必要はなく、焼け跡に仮設の小屋を建てるスペースは事欠かなかった。闇市の雑炊一杯を我慢して小屋の幕をくぐった人達は、ひどく怪しからん演目に「ダマされた!」と腹を立てたとしても、昔ながらの見世物の風景にどこかホッとするところがあったのではなかろうか。

見世物小屋に貼られた求人ビラをみて、森金興行に入ってきたのは五人の「若い衆」だった。不規則な生活にヒロポンに手を出す者もいて、しばらくして残ったのは多田さんを含めて二人だけだった。

ちょっぴり見栄坊で、見世物師として人一倍のプライドを持ちながら、人一倍コンプレックスも強かった多田さんは、「終戦後はとにかく働き口なんかなかったんや。関大の法科出てる弁護士志望の奴が見世物の木戸やっとったんやから」と当時を振り返っていたものだが、多田さんともう一人残ったナカイという男が、その「大学出の木戸打ち」だった。

 

 

 

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