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藤里毘沙門堂の兜政毘沙門天像

 

そして、その神は、当地に仏教が伝来する以前は、今も成島昆沙門堂に隣接する熊野神社の裏山にある、坂上田村麻呂が征夷に際し矢を射ったという伝承をもつ“坂上田村麻呂の失がけ岩”とイメージが重なっていたのかもしれない。この矢がけ岩は、丘の項上に露出した大小二つの岩盤で構成され、表面にまるで積み石のような礫(れき)が付着している(図9])。小さい岩は高さ約三メートルで、大きい岩は裂け目から樹木が生え立っている。前号の信貴(しぎ)山縁起(さんえんぎ)絵巻で言及したとおり、平安時代のサイノ神は丸石であった。岩石や樹木は古来より神の依り代として崇められていたが、この田村麻呂の矢がけ岩は、熊野神社の原初のご神体で、サイノ神であった可能性が高い。そして、成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は、そのどっしりとした愛敬のある岩座のような地天女に、この矢がけ岩のイメージがダブり、天空をつらぬく大木のような毘沙門天に裂け目から生える樹木を想起させる。その意味で、まさにこの像は神仏混淆(しんぶつこんこう)を瑞的に表した地元の神なのである。さらに、この兜跋毘沙門天像の地天女は、連戦第二写(自然と文化53写)で言及したアナトリアのチャタル・フュックの地母神像のような、岩座をイメージした女性の子宮を想像させる母なる神である。また、毘沙門天自体は仏教という乗り物で渡来した父なる神に見立てられる。サイノ神とは、内外両領域に属する両義的な神なのである。

そのうえ、この毘沙門天像の頭にかぶる特異な前立冠は、日本で古くから死人の額につけた白紙の額烏帽子(ひたいえぼし)を連想させる。すると、この像の天へと続く柱的なイメージは、死者の霊魂を天空の黄泉(よみ)の世界へ導く、連載第三号(自然と文化写)で述べたヘルメス神的、あるいはヘルメス柱のイメージとオーバラップするのではないか。サイノ神とは、生の領域と死の領域を繋ぐ神でもある。この成島・兜跋毘沙門天像の特異な前立冠の形態は、成島毘沙門堂より南に約二○キロメートルほど下った北上川東側の藤里毘沙門堂(愛宕神社)とのナタ彫・兜跋毘沙門天像(図10])に継承される(連載第一写で図版を載せた岩手県天台寺吉祥天像の前立冠も同形態)。藤里毘沙門堂は、前九年の戦い(一○五一〜六二)の首謀者である阿部頼良(よりよし)(時)の孫にあたり、奥州干泉・藤原三代の創始者である藤原清衡(きよひら)の旧宅とされる豊田館跡の近在に位置している。藤里の兜跋毘沙門天像は、基本的には成島の兜跋毘沙門天像の表現や服制を踏襲しており、両像の願主の連続性が推定できる。成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は、その意味でも蝦夷の末裔日阿部氏が造像したものと思われるのである。

 

 

 

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