服装面ぞ簡素な唐風の皮甲の形制や鰭袖の翻りと大袖の結びの形態などが『別尊雑記』の兜跋毘沙門天像と近似しているので、天台系図像の影響が示唆されるが、おそらく蝦夷に連なる土着の豪族阿部氏が、十世紀頃に東北地方の天台宗の浸透にともない天台系の兜跋毘沙門天図像を基に、この像を造顕したのであろう。しかし、私はこの像を単なる毘沙門天と思っていない。
成島毘沙門堂のある熊野山は、現在でも東和町と花巻市を分かつ境界の山であり、当時は猿ケ石川流城に住む土着民と北上川流域に住む人々との生活領域を分かつ聖なる山であったのだろう。ここに祀られた兜跋毘沙門天像は地元民にとって内部の災厄を外へ送り出し、外部からの災いを内へ入れないようにするサイノ神であり、山の神であった。