日本財団 図書館


◎身近な兜跋毘沙門天◎

本連載は、最後に日本の東北地方に残る兜跋毘沙門天像の話まで行き着いた。ここでもう一度、兜跋毘沙門天の東漸(とうぜん)の旅路を振り返ってみよう。

遥か昔、インドの精霊ヤクシャの統領であった財宝神クベーラは、仏教に取り込まれ四天王の一尊として北方を守る守護神となった。紀元前一〇〇年頃の中インド・バールフトのストゥーパを囲む玉垣北入口に浮彫りされた守護神クベーラ・ヤクシャ像が、その原初的姿である。インド西北のガンダーラに入り、クベーラ神はイラン系遊牧民クシャン族が崇拝した「帝王の栄光」を象徴するファロー神と習合し、仏伝浮彫の中で毘沙門天として独立化し登場する。その姿はファロー神と同様、クシャン族の王侯貴族の服装である丈の長い上着を着て、頭にギリシア・ローマのサイノ神(境界線)であるヘルメス・メルクリウス神から借用した一対の鳥翼飾りをつけ、一部は武装した武人像として表現されている。なお、私は連載第一号で先学の見解どおり、毘沙門天の起源を仏教成立以前のクベーラと名付けられたヴイシュラヴァス神の子としたが、最近の田辺勝美氏の研究から(注5])、ヴィシュラヴァス神の存在に疑間を抱いている。

中央アジアでは、毘沙門天がヒンドゥークシュ山項で独尊として祀られ、国王の神格化や観音と結びついた北方守護のサイノ神として、旅人に良き道を指し示す道祖神的機能が付加された。また、玄奘はバルフの仏教寺院で異民族の侵入を阻止する、武神的財宝神的役割をもった毘沙門天を見聞した。

そして、ホータンにおいて毘沙門天は、西方的な地母神と合体し、サイノ神のイメージが顕著な、地天女に支えられた形態の兜跋毘沙門天像が誕生した。兜跋毘沙門天像は、敦煌では『金光明最勝王経』(こんごうきょうさいそおうきょう)が説く護法神的な意味合いが強くなり盛んに絵画化され、中国に入り、夷狄の侵攻を撃退した安西城毘沙門として流行し、各都市の城門に祀られるようになった。四川省石窟に多数存在する兜跋毘沙門天像は、このようなインド・中央アジアを変遷してきた毘沙門天の様々なイメージが集大成され中国化したものであるが、さらに毘沙門天の根源的なサイノ神の役割が復活した造像になっている。また、この地方の兜跋毘沙門天像は、地天女の両脇に尼藍婆・毘藍婆の二鬼を添えた形式が確立し、カシミール・ネパール・チベットを経由したヒンドゥー教のヴィシュヌ神のイメージも取り入れられた可能性がある。

一方、極東の島国日本には、密教と共に兜跋毘沙門天像が請来された。元平安京の羅城門に安置されていた現東寺の兜跋毘沙門天像は、安西城毘沙門説話で語られた王城鎮護のため直接中国からもたらされたもので、精巧な西域風の外套様鎧を身につけ、夷狄撃退のイメージがはなはだしい。このような西域風の外套様鎧をまとった兜跋毘沙門天像は、都の北方を守る鞍馬寺創建本尊像のように畿内を中心に流布したが、本来的な意味で兜跋毘沙門天像が日本各地に定着するのは、日本で馴染みの深い唐風の皮甲を着たものであった。これらの像は、天台宗の布教と共に西へ東へと伝播し、福岡・観世青寺の兜跋毘沙門天像のように各地の土地神や山の神と習合しつつ、サイノ神として祀られていった。今見た岩手・成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は、北方守護神として出発したサイノ神・毘沙門天が、最北瑞の地で最高潮に達した巨像なのである。

さて、このような変遷を辿った兜跋毘沙門天像は、その後日本でどのようになってゆくのであろうか。実は、鎌倉時代以降兜跋毘沙門天像は、東大寺中門像など一部の模刻像を除いて、ほとんど造られなくなる。そのわけは何なのか、いまだはっきりとした答えは示されていない。しかし、私が現在住んでいる東京都町田市鶴川の近くに残る一体の兜跋毘沙門天像が、その理由のヒントを与えてくれているように思えてならない。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION