日本財団 図書館


そして、この円仁感得の毘沙門天像は観音の化身=同体とするところから、鞍馬寺創建時の毘沙門天像と同様に、『法華維』普門品に説かれた観音三十三応現身に基づく「観音所変の毘沙門天」と位置付けられ(注3])、ヒンドゥークシュ山項の最初期の毘沙門天石像から連綿と続く、根源的な毘沙門天と観音との繋がりを物語る。また、『別尊雑記』の兜跋毘沙門天像は宝冠に鳥形を頂いているが、このような毘沙門天の鳥にまつわるモチーフは、本連載で追求しているように、ギリシア・ローマのへルメス・メルクリウス神から継承されたサイノ神性のシンボルであり、毘沙門天の根源的なイメージに瑞を発している。比叡山では、この毘沙門天の鳥冠は、西塔釈迦堂に安置されていたと伝わる二天像中の多聞天像(図7])にも受け継がれてゆく。

以上、比叡山天台宗では、最澄、円仁と続き毘沙門天崇拝が根強く、特にその毘沙門天は地天女に捧げられた兜跋毘沙門天の形像であった蓋然性が高い。東寺系の西域風外套様鎧を着た兜跋毘沙門天像がほとんど畿内を中心とした地域にしか広まらなかったのに対し、『別尊雑記』の兜跋毘沙門天像は、比叡山天台宗を象徴する毘沙門天として、日本各地に天台宗が流布する過程で、その図像が伝播していったのである。

 

069-1.gif

延暦寺の二天像中の多聞天像

 

◎成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像

私は、本連載第一号(自然と文化52号)の最初に岩手・成島(なるしま)毘沙門堂の兜跋昆沙門天像を取り上げた(図8]、注4])。おそらく中国・日本を問わず、現存する兜跋毘沙門天像中最大、かつ最北に祀られたこの像は、今まで連載で辿ってきた兜跋毘沙門天像の変遷を、あらゆる意味で象徴する存在である。

成島毘沙門堂は、岩手県花巻市から東へ約八キロメートルの和賀郡東和町北成島に位置し、北上川支流の猿ケ石川をのぞむ北岸の丘陵(熊野山)の頂部に立てられている(図9)。このお堂の本尊・兜跋毘沙門天像は、総高四・七二メートルに及ぶケヤキ(カンバという説もある)の一木造で、頭部に特珠な前立冠(まえだてかん)をかぶり、若干左肩をいからせ、軽く左へ膝をひねり、左際をややのばして、地天女の掌上(たなごごろ)にずっしりとおさまり立つ重厚かつ微妙なバランス感覚を有しており、両脇に木目をうまく利用して造られた尼藍婆・毘藍婆が正坐している。 一般にその凄まじい大きさと勇猛な姿から、平安初期に当地の蝦夷を討伐した坂上田村麻呂と結びつけ、蝦夷征伐のために中央権力が祈願して造像したと見做されている。確かに成島毘沙門堂は田村麻呂が蝦夷征伐の拠点として築いた胆沢城の東北鬼門に位置するが、同時に北上川東側にあり、中央権力の城や柵が作られた北上川西側でなく、むしろ蝦夷の根拠地と伝承される“成嶋京”の中にあるため、私は、この兜跋毘沙門天像は実は蝦夷の人々末裔が造ったものであると考えている。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION