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北アルプスの雄峰立山が見え、「礪波山」「倶利伽羅峰」にもふれている。世阿弥が夢幻能の題材にした源平のいくさの古戦場の一つだ。やがて朝もやの中に佐渡が見えてくる。「下(しも)の弓張(ゆみはり)の月もはや、曙(あけぼの)の波に松見えて、早くぞ爰に岸影の、爰はと問(と)へば佐渡の海、大田(おほだ)の浦に着きにけり」とある。現畑野町多田で、五月の下旬には佐渡に着いていて、十五日から二十日間ほどの順当な船旅であった。

「配処」では、翌日小佐渡の山を越えて国中にある「しんほ」(現金井町新保)というところに着き「万福寺」という小院を宿にしたとある。途中「笠取」という峠(吉田氏は「笠借」と付記しているが誤まり)で駒を休めた。「都にても聞きし名所(などころ)なれば、山はいかでか紅葉しぬらん」とつづるから、紅葉の名所で知られた都の醍醐寺(真言宗醍醐派の総本山)の背後にある笠取山(京都府宇治郡誌に「醍醐の山脈に接続し、近江国滋賀郡に亘る。古来この山を詠せし歌多し」とある)を思い出したらしい。世阿弥と父観阿弥はかつてこの醍醐猿楽の楽頭職をしていたことがあり、奈良から京都へ進出するきっかけにもなった思い出深い地であった。その笠取山と同名の峠が佐渡にもある。いまは五月だが、秋を思い「山はいかでか」と記すのである。続いて「山路を降り下れば、長谷と申(もうし)て観音の霊地にわたらせ給。故郷にても聞きし名仏にてわたらせ給へば、ねんごろに礼拝して」とつづっている。「故郷」とは大和の国(奈良県)であり「観世座」の芸名は大和の長谷寺(真言宗豊山派の総本山)の観音びいきから生まれたとされていて、それと同名の「長谷」が佐渡にもあり、しかも観音の霊地と聞いて「ねんごろに禮拝」するのである。なお万福寺に落着いた世阿弥は「しばし身を奥津城処(おくつきどころ)こゝなから」(ひょっとしたら、ここが自分の墓場になるのだろうか)と書いている。さみしさが胸をよぎるが、しかし慨して平静で「佐渡は小京都」といった思いも持ったらしい。

「時鳥」の詞章では、鎌倉後期の歌人で永仁六年(一二九八)に流される京極為兼の配所、八幡(やはた)(現佐和田町八幡)を訪ねる。「泉」では承久三年(一二二一)の承久(じょうきゅう)の変で流される順徳上皇の配所泉(現金井町泉)を訪ねている。また「十社」では「爰は当国十社の神まします。敬信のために一曲を奉納す」と記していて、佐渡で能を一曲奉納した。

 

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佐渡の長谷集落(現在は長谷(ちょうこく)寺がある・撮影=鎌田直治)

 

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世阿弥の配所、金井町泉に伝わる鎌倉末から南北朝の鬼神面(正法寺蔵)。世阿弥が都から持参したとの伝承がある。(新潟県文化財)

 

 

 

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