最後が佐渡でつづられた『金島書』(吉田氏は、表題を「金島集」と紹介している)である。この紀行ふうの小謡曲舞(くせまい)集は、吉田氏の紹介以外には、その後どこからも写本が発見されていない。佐渡へ流されていく道中、配所佐渡の国情、島における知見や心情がつづられている。この一篇によって、世阿弥が最晩年を佐渡で過したこと、この書がいわば絶筆の形になり、以後まったく消息を断ったことなどが知られることになる。
◎配流の地・佐渡を綴った『金島集』
『金島集。一帖。合一十四紙。外題に金島書とあるは、後人の追號なるべきも由来明白なり。金島とは、佐渡の島に古来黄金の出づるに取りて命名したる者(もの)にして」と吉田氏は書名の由来を書いている。八つの詞章からなるこの書は、まず「若州」から書きはじめられる。福井県の旧国名で、永享六年(一四三四)五月四日に都を立ち、つぎの日には小浜の港に出ている。敦賀とならぶ室町時代の有名な海港で、大津から船で琵琶湖を下ったという説もあるが、京都と小浜を直接陸路で結ぶ「若狭街道」(鯖(さば)街道)を歩いて小浜へ出たとみられる。短距離の上に、敦賀より佐渡には遠い小浜へ出て出帆しているためである。
「海路」は日本海を北上していく船旅が記される。「東(ひがし)を遥(はるか)に見渡せば、五月雨(さみだれ)の空ながら、その一方(ひとかた)は夏もなき、雪の白山(しらやま)ほの見えて」とあるから、石川県南東の白山連峰が視界をかすめていた。続いて「能登」「珠洲(すず)の岬」「七島(ななつじま)」が記される。「七島」は輪島市の北方二○から二五キロ沖合いに浮かぶ七つの離島で、珠洲の岬をかわして船はやがて富山湾に入る「海岸遥(はる)かにうつろひて、入日(いりひ)を洗ふ沖(おき)つ波、そのまヽ暮れて夕闇の、蛍とも見る漁火(いさりび)や、夜の浦をも知らすらん」の美しい描写がある。