するとこれを読んだ同好者が、同名の書が安田善之助氏方の『松廼舎文庫』にあること、加えてほかにも世阿弥の未発表の遺作が数多くあることを吉田氏に知らせたのである。驚喜した吉田氏は「従来能楽の故実・沿革全く嘘もて固めし嫌なきに非ず…予輩既に世子の十六部書を獲て、該道創始の根本史料に接せり」と書いている。校註し解説をつけ、刊行したのは四五歳のときであった。発見の数帖は、袋綴りで紙の両面に書写されていて『申楽談儀』の一部と『花伝書』の「別紙口伝」のみがカタカナ書きで、ほかは全部ひらがなで綴られていた。
全編が直筆ではなく、江戸初期寛永のころに、 一人の筆耕によって書写されたもので、もともとは世阿弥直系の孫の十郎が立てた「越智観世家」(奈良県)にあったものの転写本だろうとされる。が、吉田氏が写しとったこの「安田本」は、大正十二年(一九二三)の震災で全冊とも焼失してしまい、その形は吉田氏の活字本で残るのみとなった。
世阿弥の能楽論書は、その後もいくつか発見されて現在は手紙二通をふくめて二十二部となり、その全文が『世阿弥・禅竹』(岩波・日本思想大系)に収載されている。編者の表章氏(法政大学能楽研究所長)は「この吉田本の刊行は、世阿弥に関する研究にも甚大な影響を与えた記念すべき業績であった」と、その業績をたたえている。
◎世に出た世阿弥十六部集◎
十六部集の中にはまず『風姿花伝』(ふうしくわでん)がある。世阿弥の最初の芸術論書で、三八歳の応永七年(一四〇〇)ころには書きはじめられていた。「いづれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて咲くころあれば珍らしきなり。能も住する(停滞する)ところなきを、まず花と知るべし」などとある。散るゆえにこそ愛惜され、散るからこそまた咲く。それが珍らしいのであり、珍らしさ(新鮮さ)を生み出す芸風を身につけることが「まことの花」であるとする。「秘すれば花、秘せずば花なるべからず」など、美しさを持続させる花の哲学が論じられる。つぎに『花鏡』。(くわきょう)最初が欠けていて書名かわからなかったので『学習條々』と紹介してある。六二歳の応永三十一年(一四二四)に書かれた能学美論書、演技・演出論書で「命には終りあり、能には果てあるべからず」の有名なことばや、心眼をもって客観的に自分の姿を見ること、すなわち「離見(りけん)の見(けん)」を説いた「目を前に見て、心を後(うしろ)に置けとなり」などが記されている。『至花道』(しくわどう)は、そうした「花」に至る道を説いた稽古論で、書名もそれに由来するのであろう。
『世子六十以後申楽談儀』(さるがくだんぎ)は、永享二年(一四三〇)十一月の奥書があって、二男の元能(もとよし)が父(世阿弥)から聞いた芸談、主として能の歴史、能役者やその芸風、能面・能装束のことなどいろいろ記されている。父の教訓としてまとめられたもので、世阿弥の著述ではないが、それ以上に記事が具体的で、人間世阿弥とその思想が鏡にうつし出される。世阿弥七○歳のときの完結である。
ほかに『夢跡一紙』(むせきいっし)と『却来華』(きゃくらいくわ)(吉田氏は「世子七十以降口伝」と紹介している)がある。前書きは論書ではなく、永享四年(一四三二)八月、地方興行に出て三重県の津市で突然早世した長男元雅(もとまさ)の死を悼んだ文章だ。「道の秘伝・奥儀ことごとく記し伝へつる数々、一炊(すい)の夢と成て」と深い哀しみをつづっている。後者はその元雅の死によって「当流の道絶えて、一座すぞで破減しぬ」とまで記し、観世座が事実上解体された激しい慟哭をつづるのである。『却来華』の却来は禅林用語であり、究極の域まで達したのちに、下位へ戻って演じる風体を「却来風」などといった。元雅に伝えておいた「無上妙体の秘伝」である却来風が断たれることになるために書き残したもので、永享五年(一四三三)三月の奥書がある。世阿弥はこの翌年に、七二歳の老いの身を、遠い佐渡に流されることになり、涙のかわくことのない、不運の追い討ちに遭遇するのである。「無用の事をせぬと知る心、すなわち能の得法なり」ともこの書に書いていて、枯れた芸域に達していた。