同校の経営に深く関わっていた市島謙吉の後楯もあって、彼は文学部史学科の講師の職を得、国史と日本地誌を担当することになった。辞書編さん中、定まった収入がなく、妻と二男二女を抱えた耐乏生活の彼にとっては願ってもないことだった。それ以来、早稲田の名物教師として生涯を送ることとなったのである。 上野で地名辞書完成の祝賀会が催された翌年、四四歳になった東伍はまたしても「日本文化史上の画期的な発見」をして世間を驚かせる。
同校の経営に深く関わっていた市島謙吉の後楯もあって、彼は文学部史学科の講師の職を得、国史と日本地誌を担当することになった。辞書編さん中、定まった収入がなく、妻と二男二女を抱えた耐乏生活の彼にとっては願ってもないことだった。それ以来、早稲田の名物教師として生涯を送ることとなったのである。
上野で地名辞書完成の祝賀会が催された翌年、四四歳になった東伍はまたしても「日本文化史上の画期的な発見」をして世間を驚かせる。
東伍の論文を掲載し続けた
日本歴史地理研究会(学会)の雑誌「歴史地理」
従来の能楽研究を一新させた「世阿弥十六部集」の表紙(1909刊)
独学者東伍の立志伝をいち早く載せた雑誌「成功」
歴史地理研究会賛成員招待会で
前列中央の和装が東伍(1901年4月21日撮影)
東伍自筆の履歴書
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