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十一郎はこれを一八八三年(明治一六)に内務省地理局の依頼で資料として貸し出したが、同局の局務中止により返却され、再び手元に保管していた。東伍は、早くからこれに目をつけていたのである。

話を聞いた十一郎は東伍の志の高さを褒め、その願いを許し、最後まで諦めずに頑張れと励ます。同時に東伍はこれを市島謙吉にも相談する。市島は計画のあまりの膨大さに一瞬たじろいだが援助を約束する。資金調達の手配、出版社冨山房への推薦、郷里の市島宗家にある蔵書の提供まで引き受けてしまった。出版を了承した冨山房坂本嘉治馬にとってもまた、相当の勇気を必要とする選択だったであろう。東伍の破天荒な冒険への賭けである。

東伍が地名辞書の執筆を始めたのは満三一歳、日清戦争終結の年である。原稿を書き終えた四三歳の時には、日露戦争も終わっていた。

極限まで切りつめた生活費。睡眠時間、食事の時間までをも惜しんで机に向かう東伍。執筆が大詰めを迎えるころには、運動不足と栄養失調がたたり、内落ち痩せ衰え、顔面蒼白となっていた。文字通り粉骨砕身の研究を続けて一九〇七年(明治四〇)に完成した辞書は収録項目四万一千余、二千頁を超える大巨編となっていた。それは当初予定された分量の約三倍にあたる。「序言」に記された「悪戦僅に生還するの想あり」は、彼の十三年間、一千二百万字の苦闘の日々を百万分の一に凝縮した、万感こもる十二文字である。

常識外れのボリュームと内容を備えたこの辞書が書店に出現し、それが在野の一個人によって編さんされたものであることを知った人びとは誰もがみな仰天した。

当時「わが国開びゃく以来の大著述」と言われ、起稿からほぼ一世紀を経た今日も版を重ね続ける大日本地名辞書。類似の書名をもった後追の辞書事典も多数出版されているが、吉田の辞書には類書とは決定的に異なる特徴がある。

まず、吉田はその序言でこの辞書は「地誌」である、と宣言している。地理学の出発点となる地誌。地理学の目的は、特定の場所・地域での人間生活を理解するためのものと考えていた彼は、辞書の地名の配置を明治政府の行政区分ではなく、わざわざ古い『和名抄』の地名による項目だてにした。明治の行政区の区画編成や地名の命名は、歴史的・地理的関連性、風俗民情を重視せずに行われており、誤りもある、という持論を編集方針に反映させたからである。

 

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完成した地名辞書原稿の前で(1907年頃)

 

 

 

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