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この時代に十数年も前の本が突然復刻されるのはまったく異例、不可解なことです。東伍自身の意図ではなく、東伍の学問に注目して、これを政治的に利用しようとする人々がいたということでしょう。

谷川…東伍は大日本帝国主義の先駆者、『日韓古史断』は日韓併合の理論的基礎を与えていることになる。ところが東伍はそんな政治的な発想をする人じゃないという信頼感が私にはあります。そうすると東伍はどこでそういう発想を得て一気加勢に書いたのかわかりません。北海道行きも謎ですが、『日韓古史断』も謎です。東伍は自らを楽浪の逸民と称しているところからしても、日本の天皇が一番偉くて朝鮮が隷属していたという発想ではなさそうですが。

渡辺…東伍は蔵書をもたない人だった。ところが唯一朝鮮本だけは、身の回りに置いたのです。死んだ時に新潟の図書館へ朝鮮本を遣族が寄贈しているのですが、吉田家に今でも朝鮮本がたくさん残っています。

谷川…東伍は朝鮮へ旅をしています。

渡辺…大正四年(一九一五)に京城に行っています。歴史地理学会の講演合の講師に招かれ講演をしたのです。

谷川…久米邦武(くめくにたけ)の「神道は祭天の古俗」が問題になっている時に、東伍は久米を擁護しています。また明治天皇が北朝の系譜であることもはっきり言っている。そういう様に物事をクールに見ています。『日韓古史断』も同じだと思います。一時的な日本帝国の膨張史論を基礎に置いたのではないと見たいのです。

渡辺…「神道は祭天の古俗」が問題になっている時、東伍は田口卯吉と一緒になって久米邦武を擁護していました。その当事者久米邦武が『日韓古史断』を校閲しています。『日韓古史断』の初版の扉に「討死にも覚悟である」と激烈な文章が書かれています。東伍としては似つかわしくない言葉です。しかし、明治四十四年の復刊本にはその文章は入っていませんでした。

谷川…難しい問題ですが、どうしても解いてゆかなくてはならないです。

 

◎弟の高橋義彦と『越佐史料』

谷川…弟の高橋義彦に目を向けていきましょう。

井上…東伍よりももっと分からない人物です。学歴も全く分からない。

渡辺…小学校に入ったかどうかも分かりません。

井上…それでいて学殖はすごいものをもっています。

谷川…吉田東伍が『大日本地名辞書』を書き始めたのは三十三才の時です。その時、高橋義彦はどうしていましたか。

井上…高橋家にいたのでしょうけど、動向は分かりません。

谷川…『越佐史料』はいつごろからまとめようとしたのでしょうか。

井上…大正十四年(一九二五)に出た『越佐史料』巻一の義彦の序言によりますと、兄東伍が『大日本地名辞書』を編修するにあたり、義彦に越佐両国に関する資料収集を命じた、義彦は作業を進めるうち越佐史の完備していないことを痛感し、大正六年に至り兄と会って『越佐史料』の題名で編纂することを決した、翌年兄は長逝したが、「予ハ大日本地名辞書ノ著作ニ一身ヲ委シテ他ヲ顧ルノ遑ナシ、南国史ノ如キハ、宜シク卿ノ按排ニ委ス」という兄の遺言を守り、兄の寄託を受けた渡辺世祐ら歴史家の協力を得てここに発刊する、というのです。

ところで、早く「新潟新聞」明治三十四年(一九〇一)四月二十八日に、次のような記事が出ています。

○県庁文庫内の古書類謄写 大日本地名字書(ママ)・日韓古史断等の著述を以て有名なる歴史家落後生吉田東伍氏の舎弟中蒲原郡三箇村大字海老ヶ瀬の高橋義彦氏亦考古の史癖あり、先頃越佐両州の地理歴史の取調を思ひ立ち、頻りに材料の集収中の由なるが、過日来、上野黙狂氏と共に県庁へ出頭し、特に同文庫内及各課所蔵の古書類閲覧謄写の許可を得て目下筆耕者数名を傭い謄写中の由なるが、該文庫中には随分他に得難き古書古絵図等もあれど、目録の整頃し在らざるより往々散逸して捜索に困難なりと云ふ、因に記す、新潟県史の如き前記と併せて二百冊以上に及び一代史料なるが、此等は是非精読して大成あり□ものなりと同氏等の語られき、

 

 

 

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