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谷川…『大日本地名辞書』の序文に三上参次という歴史学者が書いています。旧幕府は文化七年に地誌の編纂を学問所に命じました。天保元年に『新編武蔵風土記稿』、そのあと『新編相模国風土記稿』が完成しました。加納諸平(かのうもろひら)、本居大平(もとおりたいへい)は和歌山藩の命によって『紀伊続風土記』を作りました。また、頼杏坪(らいきょうへい)の『芸藩通志』が出ました。最後の花が『大日本地名辞書』と考えれば非常に理解しやすい。

渡辺…東伍は『大日本地名辞書』の序文で堂々と自分の書いた辞書は地誌であると宣言しています。

谷川…今の地名辞書と違います。地名は項目なのです。項目を引くと地誌が出てくるのです。

 

◎日韓併合の理論『日韓古史断』を執筆

谷川…『日韓古史断』が日清戦争の前にでたのは政治的な勘繰りができないこともない。朝鮮を舞台に権益をめぐって清国と日本が争っていましたから。

渡辺…結果的にはタイムリーな出版物でしたし、東伍は歴史地理学者としての名前を世に出したわけです。日鮮同祖論は後に固まってきますが、あの時点で発表し世に問うたことは史学史的にも大きいと思います。日朝交渉史研究の学史から見ても『那珂(通世)氏の年代考において征韓の年次を証す』を明治二十一年(一八八八)に雑誌『文』に投稿している。彼は朝鮮問題についてかなり早い時期から勉強していました。

谷川…『日韓古史断』は冨山房から刊行されましたが、『大日本地名大辞書』の前から冨山房と関係があったのですか。

渡辺…前島密と市島春城が冨山房の坂本嘉治馬に口を利いたと言われています。坂本嘉治馬が、東伍の人となりを見ておこうと、お茶の水の下宿先を訪ねるのです。部屋に入ると、そこには一閑張りの机が一つ置いてあるだけなのでびっくりした。この有名なエピソードは、地名辞書を編纂している時のこととして紹介されていますが、正確に言うと、『日韓古史断』を執筆している時のことです。坂本は書物がない部屋を見て、「先生は資料もなしでどうやってお書きになりますか」と聞くと、「図書館に一日行ってくれば、十日や十五日は書ける」と東伍は答えたというのです。坂本は痛く感動して出版を即断する。

坂本は、冨山房の社史を書いた時、『大日本地名辞書』のながれの中でエピソードを紹介したので、こういう間違いが起きたのです。

谷川…『大日本地名辞書』の序文の「政治沿革編」の中でも、垂仁天皇の時、伽耶からの朝鮮の移民が日本にやってきたと述べています。これをどう理解したらいいのか分かりません。日本が朝鮮を合併する理論的な基礎の一つがそこにあるような気がする。東伍は自分を楽浪の逸民と称していましたが、その意味するところは高句麗が先祖で自分はその末裔ということでしょうか。

渡辺…戦前に金沢庄三郎先生が『日鮮同祖論』をまとめますが、周りが言うように兄貴が日本で、朝鮮が弟であるという言い方はしていないです。むしろ「上古の韓漢は我国より見て先進国であった」と書いています。その時期に、学問を利用する側の方で勝手な解釈をする。実際に、『日韓古史断』は明治二十六年(一八九三)に初版が出ますが、明治四十四年(一九一一)に入り、併合された時に「復刻」されるのです。

 

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『日韓古史断』の表紙。表紙デザインは東伍自身による

 

 

 

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