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早稲田大学関係者らと共に(右から高田早苗、市島謙吉、吉田東伍)

 

谷川…吉田東伍が『大日本地名辞書』を書こうとする時に、市島春城に相談をしたのです。市島文庫並びに小川氏『日本国邑志稿』より得られるもの二千余点、上野図書館および民間の書籍より得られるもの二千余点、残り二千余点は世のいわゆる秘本珍書のうちに求めなくてはならない。と吉田東伍は市島春城に言ったそうです。そうするとかなりの分量を小川氏の『日本国邑志稿』に頼っていたと考えざるを得ない。

井上…市島文庫は、市島春城の収集です。

春城は、五泉の和泉家を介して東伍の義兄になりますが、大地主市島家の分家角市市島(かくいちいちしま)家の六代として、この家は廻船業を営むとともに地主であり、代々文人を出したことでも知られています。特に二代市島岱海(たいかい)は、享和元年(一八〇一)から数年をかけて漢詩文集『岱海堂文集』二〇巻を刊行しました。

その本家の市島家は、手広い商業活動とともに福島潟干拓などで土地を集積、水原から後に福島潟べりの豊浦村天王に移りましたが、全国に知られたいわゆる千町歩地主です豪壮な邸宅には数寄屋造りの茶室などがありました。

義彦が養子となった高橋家もそうですが、地主は代を重ねるにつれてそれぞれ文化的なものに興味を示し、地主文化ともいうべきものを形成しました。越後の地主について、土地集積過程や近代的資本家への転化、あるいは小作争議などのことは研究がたくさんありますが、文化的な側面からも考察しなければと思っています。

谷川…藩学とまでいかないが、新発田藩の伝統や家の学問があったわけだから、東伍は中学校中退でもよかったのです。また幕末から明治にかけての蓄積の上に東伍の業績がのったのですね。

井上…そうだと思います。

谷川…商人や地主層は、富が蓄積されると文化人と交わりを持ちます。

井上…越後の場合、それが顕者になってくるのは文化文政時代です。元禄の頃は、まだあまり地域の特色が出ていませんが、新田開発が進んで富が蓄積され、五十年、百年経つと、生活にも余裕が生じて新しい文化が育つことになります。

谷川…地誌の動きは、だいたい文化文政時代から始まるようです。

井上…越後の地誌の先駆は宝暦六年(一七五六)の「越後名寄」ですが、本格的に何種類も編纂されるのは文化文政で、前に述べましたように、みな民間の人々によるものです。

 

 

 

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