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鎌倉時代には熊取荘という荘園が存在しており、南北朝時代には熊取町の南にそびえる雨山の頂上に築かれた雨山城が北朝と南朝の争奪戦の場となった。雨山城は紀州と泉川を結ぶ粉河街道をおさえる山城として、泉州北部の宮里城(和泉市)と並んで戦略上重要な城であった。正平3年(1347)北朝方から任命されて和泉国守護に着任した高師泰(こうのもろやす)は、日根野荘を拠点とする武士日根野時盛にこの城の固めを命じる。このあと足利尊氏、直義兄弟の争いから高師泰は追われ、一時的に南朝方が勢力を盛りかえし、正平8年(1353)には雨山城は、南朝の橋本正高の手に渡る。正高は雨山城を整備し、和泉の南朝の拠点とした。その後、正平24年(1369)南朝の総師楠本正儀が北朝に帰順、やがて橋本正高もこれに従ったことから、雨山城の落城、再び北朝の手に帰す。天授4年(1378)正高は再度南朝に復帰して南朝軍として挙兵し、雨山城を奪い返したものの、北朝方の細川頼元、山名氏清らの軍勢に破れて落城する。その後も、雨山城の城は南朝方や山名義理により戦場となっていく。

南北朝から室町時代にかけて、農村生活も一段と進展し、農民は従来の荘園支配の組織とは別に、惣とか惣村と呼ばれる自治組織をつくりはじめる。15世紀ともなると守護をはじめ根来寺、粉河寺などの寺院勢力を武力を貯え、時には泉南地方にも出兵するようになる。このような勢力に対し、くまとりの住民達は近隣の村々とともに抵抗したり、山へ逃げ込んだりし、連結を深めていく。惣は共有の財産を所有し、村の秩序を維持するために掟を定めたりした。山林や用水の管理・犯罪防止・村の防衛・道路の修理など生活に必要な事を取り決めていた。惣の指導者は「地侍」とも呼ばれ、武士的な性格をもった士豪たちで、彼らの中から「おとな」といわれる代表が選ばれ、惣はこれら「おとな」を中心とする寄り合いによって運営されていた。熊取では荘園を構成していた地域がそのまま惣村になり、熊取の鎮守社である大森神社の54名座が惣の運営を預かっていたと思われる。

 

2] 和泉36郷士

戦国時代以前の泉州における代表的な地侍に、和泉36郷士があげられる。農村に基盤を置く地侍が、うち続く動乱の中でそれぞれの領域内で勢力を保ちながら、お互いに結びついていったものと考えられている。熊取にも門村、甲田、降井の三氏が本拠を置いていた。門村氏とは中氏のことで、この家からは片桐氏へ仕えたといわれる人物や徳川家康に仕えて旗本となった根来盛重がでているが、熊取では中家が五門に住んでその後代々岸和田藩の大庄屋を務める。甲田氏も岸和田藩小出氏に仕えて武士になった子孫と高村に残って百姓となった子孫に別れている。また、降井氏は降井太夫が織田信長の配下となり、毛利家の水軍と木津川口で戦い、討死してしまったため、中左近の次男が養子として降井家を継ぎ、中家とならんで代々岸和田藩大庄屋を務めた。和泉36郷士は織田信長に従って木津川口の戦いで毛利勢と戦い、その多くが戦死してしまったが、しかしその子孫は武士あるいは農民として、江戸時代以降にも続いている。

 

3] 7人庄屋(中家・降井家)

徳川家譜代の家臣であった松平康重が岸和田城に入城し、岸和田藩は3万石から5万石に拡大した。この時に熊取や佐野地域が岸和田藩領に組み込まれる。松平氏の藩内の支配は、村々に大きな影響力を持つ有力農民を郷士代官・代官庄屋に任命して行われた。その後村の支配体制を整備し、7人庄屋の体制が整う。7人庄屋は代官庄屋と同じく、中世以来の有力農民に系譜をもつ家で構成され、熊取谷中左近、同中(降井)左太夫、などの7名が代々この任にあたった。

7人庄屋の一員であった中家と降井家の権威は、岸和田藩内においては大変重く、その職務は岸和田郷会所に詰めたり、領内の村方騒動の調停、他村の庄屋補佐のための附庄屋などであった。彼らは熊取谷の庄屋を歴任し、年貢の統括はもちろん15ケ村の年寄りや組頭の決定権、谷内の裁判権までも委ねられていた。谷の運営はこの両者に任されており、五門・紺屋・野田・小垣内・宮・大浦・下高田1700石は中左近方、大久保・朝代・成合・上高田・小谷・七山1700石は中(降井)左太夫方に分かれ、藩からの布達にしても村から藩への届けにしてもすべてこの両者を通して行われていた。

 

 

 

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