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このように大きな権威をもつ両者の支配が及び、谷中の結合がつよかった熊取谷は江戸時代を通してそのまとまりを維持し続けた。

 

4] 農業の発展

大阪夏の陣が終わってから後ようやく訪れた平和な日々も、農民にとっては領主の厳しい支配と収奪があり、決して楽なものではなかった。しかし、生産と生活の向上を目指し努力がなされる。切添新開とよばれるため池を造ったり、谷水を利用したり、谷間や池の周囲を開発する新田開発がみられる。この地方は今でも池が多く、その大部分は近世に造成されたもので、見出川から取水することもあったが、熊取の水田の多くはこれらのため池から潅漑した。

民謡に「米は熊取、日根野は小豆、大木土丸は桃所」とうたわれたように、熊取では良質の米がとれ、年貢米や飯米としてだけでなく、商品として重要な意味を持っていた。また、総生産高の2割程度は木綿であった。米や木綿の水田裏作には、麦や菜種が植えられ、畑には粟、きびなどの穀物や、豆類、たばこがつくられていた。

 

5] 近代以降の熊取

江戸時代に岸和田藩に属していた熊取の村々は、有力なふたつの庄屋と谷中の強い結合によるそのまとまりを維持し、明治22年(1889)には熊取谷8ケ村(大久保・五門・紺屋・野田・七山・久保・小垣内・小谷)が合併して「熊取村」となる。またこの時代には、ため池潅漑農業に加えて、織物業が盛んとなり、しだいにはタオルを中心とした繊維産業が発達した。昭和五年には、阪和電気鉄道(現JR阪和線)の天王寺駅と和歌山駅間が結ばれ、同時に熊取駅が開設される。第2次世界大戦以後は、繊維工業の発展にともない人口も増加し、昭和26年11月には町政を施行。昭和39年に阪和線熊取駅が快速停車駅となると、昭和40年代後半以降、大阪市内まで30分という便利さから、この付近での宅地開発が盛んに行われ、農村型集落から大都市近郊住宅都市へと変貌する。

 

(3) 社会条件

1] 人口

熊取町の人口は、昭和40年代後半からの大規模な宅地開発により、昭和50年以降人口が急増し、平成10年4月現在41,551人となっている。昭和45年当時の人口13,808人に比すると約3倍となっている。世帯数についても人口と同様に、急速に増え、平成10年には13,134世帯となり、昭和45年の3,104世帯の約4倍となっている。近年は、全国的な高齢者増加傾向の中において熊取町も今後急速に高齢化が進むものと考えられる。

 

2] 産業

熊取町は、地場産業である繊維産業をはじめ、水なすなどの特産物のある農業が中心であったが、運輸・通信業や卸売・小売業、サービス業を中心に増えている。またその反面、製造業、金融・保険業は減少している。事業所数は、第2次産業では、建設業が増加傾向にあるが、綿織物を中心とする製造業は昭和50年をピークに減少している。また第3次産業では、サービス業、運輸・通信業などの事業者が増えている。農業については、近年、農家戸数や農家人口、経営耕地面積は減少傾向にあるものの、専業農家と、第1種兼業農家は戸数が増加傾向に転じている。これは定年退職者などが勤めを辞めた後に農業を行っている場合が増えてきており、生産高・耕地面積等の規模が小さい。工場については、近年工場数や従業員数、製造品出荷額等は減少し、特に工場数は昭和60年から平成7年にかけて141もの工場が減少し、そのほとんどは繊維工業の工場となっている。

 

 

 

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