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沿岸部では朝夕2回海風と陸風の交替がみられ、特に夏の夕凪は昼夜の気温較差をなくし、熱帯夜の原因ともなっている。

この地方の気象災害としてあげられるのは台風で、台風の中心が紀伊水道に進入してきたあるいは北々東に進んだ場合、大きな被害をもたらすことがある。昭和9年(1934)の室戸台風、昭和25年(1950)のジェーン台風、昭和36年(1961)の第2室戸台風などはそのコースをたどったもので、この地域に甚大な被害を与えている。

 

5] 自然

熊取町は多くのため池群を抱え、緑豊かな丘陵・山地に囲まれて集落が点在し、かつては「熊取谷」と呼ばれていた。「米は熊取、日根野は小豆、大木、山丸桃(やまもも)どころ」とうたわれ、熊取は米どころとして知られていた。また、『和泉志』には久保の「白ヤマモモ」が名産としてあげられ、これらをもたらす上質の土壌がこの地域に広がっている。

雨山城跡への登山道、永楽ダム、永楽池周辺には今も自然がよく残り、多くの樹木がある。またこのあたりは食虫植物、シダ類、水中食物など植物群が豊富で、他地域ではあまり見られない「カラタチバナ」(ヤブコウジ科)や「オオマルバベニシダ」(オシダ科)が自生している。

 

(2) 歴史

1] 地名の起こり

江戸時代の文化人であった中盛彬(なかもりしげ)は、その著書『かりそめのひとりごと』のなかで「熊取」の地名の起こりについて、「いにしへ内畑村、兎の木川の喬木の枝、くまとりまでもほびこり、その木の下を紀州へ通いしにて、いにしへは和泉は、紀州への道はここと、をの山越とのみ也。ゆえに木の下通ふ道ということにて、木の間どうりといへりしを、後に言語をはぶきてコマトリといひじを、なお略し謝りてクマトリとさへいひなりたるにぞあらんと思ふなり」と記している。また、「熊取谷は、三面は山うちかこみ、西へは遠く海にのぞみたり、その山のあしひきつづきあるは、たえて又さし出で、くまとれるかたち、一世界をなせし境なれば、隈どり谷といふなり。」ともある。さらに中盛彬は「先代考拠略」の中で「クマトリとは、絵を書くにくまをとるといふことあり、この地小景のごとく三方より小山さし出て里をかくせるさま絵の隈を取りしに似たるゆへの名なるべし」と説いている。

古代には熊取野と呼ばれ、中世では熊取荘、近世になってからは熊取谷と呼ばれている。熊取の呼び方の起源については、クマの語意は1](曲、隈、隅)2](奠)3](熊)とあり、またトリは『かりそめのひとりごと』の「木間通り」の「通り」からトリになったとる説をとると、「タオリ」の転として、タオ、トウ(峠)、山と山との間のくぼまっているところ、鞍部などの意として「タオリ」から「トリ」となったのではないかとという説がある。また崖や山の崩れたところをダレ、ダリといい、傾斜地などをダレたところを表現することがある。それが転じトリになったとも思われる。

熊取の地名起源は断定的にはいえないが、自然の地形・地勢からきたともいわれている。周囲を山地・丘陵でクマドリされた谷、あるいは盆地地形から名付けられたのではないかというものである。

 

2] 熊取の村々

熊取町は、平安時代初期に編纂された『日本書紀』において、桓武天皇が延暦23年(804)「熊取野」で遊銃されたことが記されているなど古くから世に知られている。また、平安時代末期に、後白川法皇が熊野詣の途中に五門の中家に立ち寄られ、行宮(仮設の御所)としたという伝承が残っている。上皇が行宮としたときに出入りした門が、国指定の重要文化財・中家住宅、唐門であると伝えられている。そのことから中家付近の地名を「御門」というようになり、それが「五門」と書かれるようになったという。

 

 

 

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