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中林綿布で注目されるのは、大正13年頃からの世界的大恐慌にもかかわらず、設備投資が盛んに行われていることである。綿織物の将来を見込んで遠州制作会社製の輸出用広幅力織機700台の購入、さらに昭和に入って、同社遠州織機の坂本式自動織機を529台と超高速度緯糸捲返機を導入し、施設投資に力が注がれた。中林綿布は、全国産地機業家のうちで自動力織機をいち早く大々的に導入し、画期的な近代機械化を進める一方、生産面の合理化が徹底されていた。

さらに中林綿布合資会社は、昭和2〜3年の金融・経済恐慌にもかかわらず、機業投資が活発に行われ、昭和3年末頃に紺屋に新工場が建設、同8年にも熊取村小垣内に大規模な中内分工場を建設している。設備投資、生産の合理化に力を注いできた中林綿布は、機業拠点を熊取村内におき、本社も佐野工場から紺屋工場に移している。

昭和10年、中林綿布合資会社は、中林一族により出資され「中林綿布株式会社」となる。そして大阪への進出をはかるなど営業を拡大していく。しかし政府は戦間期大恐慌に対して繊維工業の統制政策を行った。綿製品輸出は紡績会社が一手に行い、綿布会社は輸出用製品はすべて紡績会社の貸織契約制となり国内品の製綿に対しても規制が決められた。そのため繊維工業界は生産・営業不振にみまわれ、中林綿布株式会社も営業所を本社工場から切り離し、営業面の合理化と生産の業績に力が注がれることとなる。このように中林綿布株式会社は、設備投資を盛んに行い機業充実に力を注いできたが、昭和16年当時、自社4工場の織機台数は紺屋工場1,126台、中内工場944台、佐野工場418台、佐野川工場220台、計2,708台となり、和泉における帯谷綿布株式会社、泉州織物株式会社に次ぐ大工場へと発展していた。

しかし、第二次大戦中の大恐慌によって中林綿布も打撃を受け、分工場が休業・閉鎖に追いやられている。大恐慌に加えて軍需政策も大きな打撃となる。機業工場の軍需工場への転用、譲渡、力織機の供出、多額の献金などにより、大戦終期には紺屋工場のみの操業で、力織機も紺屋工場の1,126台にまで減少した。こうした社会情勢のもとで、他社の織物工場を借り受けるなどして生産量の確保に努力はしていたが、かなりの打撃を受けている。

繊維工場関係は、明治維新以来国内産業の一つとして発展し隆盛を見せた。大正末期から昭和初期にかけて世界的恐慌や、さらに戦後の混乱期には一時不況に見舞われたものの、機械技術あるいは経営の改善・合理化を盛んに行い、その都度振興に努め、昭和30年代に入る全盛期を迎えた。しかし、40年代の経済の高度成長期以後は、産業構造の変化を招き、繊維工業界はしだいに不況に見舞われ、中林綿布株式会社も縮小を余儀なくされ、平成4年に廃業した。

 

(4) 敷地及び建物の概要

工場の敷地は、北西・南東間約200mの北西から南東方向に広がった土地で、20,000m2を越す広大な敷地である。敷地のほぼ中央を東西に約4〜5m幅の住吉川で三分され、さらに南北に小さな道路が通り、工場敷地は南・北・東側とに大きく3区分されている。南西には住吉川を挟んで小高い丘陵になりそこに重要文化財の中家住宅がある。

南敷地は現在、西寄りに中庭を囲って事務所(RC造2階建)と木造平屋建の旧事務所、赤煉瓦造平屋建の倉庫2棟、そして東側に赤煉瓦造平屋建の汽罐室と2棟を連結した形式の大工場(4,931m2)がある。他には北敷地南側に赤煉瓦造平屋建の受電室と鉄筋コンクリート造3階建の寄宿舎、東側に鉄骨造平屋建の従業員食堂兼休憩室がある。

 

1] 織布工場

織布工場の建物は、赤煉瓦造平屋建で、東・西2棟を連結した建物である。西棟の桁行総長47.636m、梁行総長44.424m、東棟の桁行総長51.820m、梁行総長63.383mの5,300m2を越す大規模な建築物である。屋根はのこぎり屋根形式で、西棟は8つ、東棟は11つの山形棟を東西にあげ、ともに棧瓦葺となっている。

 

 

 

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