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また、同じ頃設立された泉南織布工場では職工64人を使った比較的規模の大きい工場であったが、織機は蒸気機関によって動かしていたのに対して、41年設立の中林綿布工場は動力化した半木製小幅力織機をいち早く導入し、蒸気から石油発動機による機械化を進め、従業員45名を擁する近代的な工場であったといわれている。

明治40年以後大正5年までに好況の波に乗った機業界では、工場の設立が続出しているが、大正5年頃までには泉南地方で職工50人以上を有する規模の大きい綿織布工場は、106工場あったといわれている。その中、熊取村では泉南織布工場、熊取織物株式会社本社工場・二分工場、道明織物工場をはじめ、7工場が設立されていたようで、山直・八木村・岸和田町(以上岸和田市)、田尻村についで多い。

産業の近代化は、半農半工の個人資本による経営から素封家らの合同出資による経営へとかわり、合資会社、株式会社へと経営組織が変化するとともに大企業化し、工場も大規模化する。そして、一方では工場建築にも新しい様式・手法、技術が導入されて洗練された斬新かつ機能的な機業にふさわしい建物へとさま変わりする。その気運は全国的にみられ、明治・大正時代は工場建築に大きな変革がみられた時期で、多くの近代的工場が建設された。しかし、これらの工場建築の遺構の多くはすでになく、殖産興業として一時代を画したその施設が残っているのは稀れである。こうした状況下にあって、中林綿布工場は、近代産業の遺産、生き証人としての、工場建築の一つにあげられる貴重な遺構といえる。

 

(3) 中林綿布工場の沿革

歴代孫次部を襲名する中林家は、寛永より明治に至る170余年の8世の代までは純農家であった。9世孫次郎氏(安政元年〜大正五年、1854〜1916)の代になって、縞木綿をはじめ、染料の藍の栽培を試み、砂糖の仲買など多角経営を行っていたが、明治30年(1897)頃、綿機布業に転じたと伝える。

孫次郎氏は、明治30年に職工28名を使って手機、太鼓機による工場を熊取村五門に設立し、綿布製織を開始し、その後、明治41年(1908)中林綿布工場は泉南郡熊取村紺屋に新工場として設立される。中林綿布は、蒸気動力による織機によって事業を増進していたが、石油発動機10馬力による機械化をはかった力織機35台を据付け、従業員45名を擁する近代的な工場となる。その際、泉南の北野藤九郎氏(南掃守村尾生、現岸和田市)が明治38年に開発した半木製小幅力織機(北野式または地名をとって尾生式ともいう)がいち早く導入されたといわれている。また、同工場では、大正5年頃には泉州で最も多く採用されていた原田式力織機(北河内郡交野村の原田元治郎氏の製作織機)214台を設置するまでに成長していたが、そのうち92台は輸出用の広幅力織機で、泉州の織布工場261のうち、広幅力織機を備えていたのは48工場にすぎず、その台数もそう多くはなかったという。泉州機業界の中でも当工場は、最先端の技術を導入した新鋭の工場であったとみられ、輸出製品の織物も手掛けるなど、当時の政府の輸出振興政策にも積極的であった、なお、中林孫次郎氏は、帯谷吉次郎氏・久保惣太郎氏らとともに、泉州織布界に大きく君臨した一人として注目される。

大正5年(1916)、9世孫次郎氏が病死したのち、長男直茂氏は10世孫次郎を襲名し、工場の経営を受け継ぐ。10世孫次郎氏はさらに経営の拡大発展をはかり、泉川地方で屈指の機業家になる。大正5年に泉南郡北中通上瓦町(現泉佐野市)に、原田式力織機220台を備えつけた佐野川分工場を新設した。さらに大正8年、泉南郡佐野町旭町(現泉佐野市)に平野式の力織機418台ある新鋭工場を設立した。翌9年には、中林一族の出資金50万円によって、紺屋・佐野・佐野川の各工場を合併し大規模化された「中林綿布合資会社」が設立され、佐野工場に本社がおかれた。大正六年頃には大阪府下でも屈指の織布機業家に発展していた。

 

 

 

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